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長野県小県郡長和町

信定寺

2015年05月03日

信定寺の沿革と由来
釈迦如来(鎌倉時代)を本尊とし、戦国時代武田信玄が信濃を攻め、城主大井信定討死、その菩提を弔う為天文22年に建立。
徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊り京都二条殿祈願寺となり、諸大名参詣す。
江戸時代14代住職活紋禅師(上田の竜洞院住職後隠居)は幕末の士、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、象山と1対1で世界情勢を語る。寺の裏山は昔の和田城跡。
(看板資料より)

鐘楼

旧梵鐘は元禄3年の作で、江戸時代までは山門の右側にあり、明治19年現在の場所に設置、昭和17年戦時中供出するまで、朝夕鳴りひびく鐘の音は村の人々の心のよりどころとしてきた。
新しい鐘のできるまで鐘楼の保存のため昭和44年に大修理を行い、昭和53年に新しい鐘を吊るす。
山門を兼ねた2層の楼門は柱が細身、やや腰高でなんとなくおぼつかない形におもしろみがあり、又鯱が逆立ちしているのが趣がある。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

信定寺の沿革と由来
釈迦如来(鎌倉時代)を本尊とし、戦国時代武田信玄が信濃を攻め、城主大井信定討死、その菩提を弔う為天文22年に建立。
徳川時代、例幣使日光参詣の途中、和田宿に泊り京都二条殿祈願寺となり、諸大名参詣す。
江戸時代14代住職活紋禅師(上田の竜洞院住職後隠居)は幕末の士、佐久間象山の師と仰がれ、その徳を慕い来るもの千余人、象山と1対1で世界情勢を語る。寺の裏山は昔の和田城跡。
(看板資料より)


鐘楼

旧梵鐘は元禄3年の作で、江戸時代までは山門の右側にあり、明治19年現在の場所に設置、昭和17年戦時中供出するまで、朝夕鳴りひびく鐘の音は村の人々の心のよりどころとしてきた。
新しい鐘のできるまで鐘楼の保存のため昭和44年に大修理を行い、昭和53年に新しい鐘を吊るす。
山門を兼ねた2層の楼門は柱が細身、やや腰高でなんとなくおぼつかない形におもしろみがあり、又鯱が逆立ちしているのが趣がある。
(看板資料より)


和田城を探して旧和田町役場から中仙道和田宿本陣の前を経て美ヶ原方面に向いました。そのうち別荘地に入り込んでしまい、老人に話を聞いたところ和田城は麓にあったお寺の近所であると教えてくれたので再び下ってお寺に向いました。確かに本陣のところにお寺があったのを覚えてきました。そしてそのお寺が信定寺というお寺であることも分かっていました。お寺の方に和田城の場所を聞いてみたら裏山が和田城であると教えてくれました。また信定寺は大井信定の菩提寺とのことだったので彼の墓など縁の物はないのかについても聞いてみましたが、お墓の場所についても丁寧に教えてくれました。少し変わった形の山門と大きな本堂が印象的でした。


虚空蔵堂

安永2年上の山にあったものを明治34年山門の左側に建立。昭和10年修築、平成12年現在の位置に移転新築。
●虚空蔵菩薩
この菩薩を念ずれば記憶もよくなり、忘れずになんでも願いをかなえてくれるとも言われている。無病息災、商売繁盛、良縁結実、交通安全と虎年牛年の守り神としてあがめられている。
●木造三宝荒神立像(室町時代の一本彫)
(看板資料より)

 


和田城
若宮八幡神社

 

 
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