←前のページ トップページ↑ 次のページ→

長野県小県郡長和町

若宮八幡神社

2015年05月03日

若宮八幡神社本殿・和田城主大井信定父子の墓
祭神は、仁徳天皇である。本殿は、一間社流造の間口1.5メートル、奥行1.7メートルの大きさで棟札には享保6(1721)年建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
天文23(1555)年和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦。信定父子をはじめ、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。元禄6(1693)年その回向の為信定6世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

若宮八幡神社本殿

若宮八幡神社本殿・和田城主大井信定父子の墓
祭神は、仁徳天皇である。本殿は、一間社流造の間口1.5メートル、奥行1.7メートルの大きさで棟札には享保6(1721)年建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
天文23(1555)年和田城主大井信定と武田信玄が矢ヶ崎で合戦。信定父子をはじめ、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。元禄6(1693)年その回向の為信定6世来安察伝和尚が当境内に墓碑を建立した。
(看板資料より)

和田城主大井信定父子の墓

事前調査の段階で若宮八幡宮というところに大井信定父子の碑があるという情報は得ていました。そして場所も信定寺からそんなに離れたところではないだろうと思っていました。しかし信定寺で大井信定の墓の場所を聞いてみたら、信定寺から約1.5〜2km北の方であるとのことでした。和田宿本陣を通過してしばらく行くと八幡神社というのがあったのでそこに立ち寄り、犬の散歩をしていた人に大井信定の墓について聞いてみましたが、そこには建物があるだけであるとのことでした。確かに信定寺の方の話では森のようなところになっているとのことでしたのでもう少し先にあるのだろうと思って先に進みました。そのまま旧道を進んで行くと右側にそれらしい森があったので車を止めてみるとそこは若宮八幡神社でした。説明版を読むと確かに大井信定父子の墓もあるとのことでした。
第一次川中島合戦が始まる頃の段階になって、諏訪のすぐ隣の地で武田に叛く決意をした大井信定のことを考えるとまだまだ武田軍の勢力範囲の基盤は思ったより脆弱で予断を許さない状況だったのではないかと思いました。

 


信定寺
和田城

 

 
←前のページ トップページ↑ 次のページ→