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群馬県渋川市

白井城

2005年04月30日

白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ3〜4メートルの土塁に囲まれている。北側には桝形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い掘を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北の守として北郭・金毘羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構(きたのとおがまえ)・東遠構(ひがしのとおがまえ)の掘があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。なお、城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて両者の関係が注目される。
いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹洞宗)や、「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りにしたがい本田広孝・康重が城主(2万石、のち5万石)となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本田紀貞と続くが、寛永元(1624)年紀貞の病没とともに廃城となった。
これ以降の経過は明らかではないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和40年代の土地改良事業においても大幅な地形の改変はなく、堀や土塁などの城としての地形が良く残っている。なお、平成16年3月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と活用がはかられていくことになった。
(看板資料より)

土塁でめぐらされた本丸

白井城は、上杉、武田、北条の間で頻繁に争奪戦が行われたところであり、情報を整理してみると次のようになるものと思われる。
1567年03月 武田の部将真田幸隆が白井城を攻略
        相越同盟の後上杉方の城となる。
        北条氏康死去後、甲相同盟
1572年 再び真田幸隆が白井城を攻略
1573年 上杉方に白井城を奪われる。
        上杉謙信死去後は北条方の城となる。
        御舘の乱後、武田勝頼の勢力圏内へ。
1582年 武田家滅亡後、滝川一益の城となる。
        織田信長死去後、北条方の城となる。

白井宿から吾妻川の方へ登っていくと白井城にたどり着くことができます。白井城の杭が立っているところには石垣が残っていましたが工事中のポールが立っていました。石垣の内側が本丸と思われますが全体が土塁で覆われており土塁の上を歩くこともできました。城は吾妻川の断崖に面していて本丸の奥の方まで行ってみると吾妻川と榛名山を望むことができます。

白井城からの榛名山

 
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