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群馬県渋川市

白井城

2016年08月13日


本丸

白井城は山内上杉氏の有力な配下で家老職を勤めた長尾一族のうち、白井を本拠とした白井長尾氏の居城である。長尾氏が上野国に入ったのは建武4(1337)年に上杉憲顕が上野・越後両国の守護となり、長尾景忠が守護代務めたことに始まる。上野での景忠の居所は惣社(前橋市)で当時白井には白井氏を名乗る武士団が存在していた。その後上野と越後の守護が分岐し、長尾氏も景忠の3人の子供が分立し、景廉が越後長尾氏、景直が鎌倉長尾氏、清景が白井長尾氏の祖となったと「雙林寺本平姓長尾系図」に記されている。
白井城の築城年代は、虎口東側に張り出し部を有する本丸の構造が、享徳の大乱(1454〜82)時に上杉軍が本陣とした武蔵五十子城(埼玉県本庄市)の主郭構造と相似していることから、両城とも15世紀半ば頃、長尾景仲(昌賢)が城主の時代に築城されたものと推定されている。
長尾景仲は、主君である関東管領上杉憲実・憲忠・房顕に仕え、「関東無双の案者(知恵者)」と称された武将である。中郷に月江正文を開山として雙林寺を建立し、白井城内には京都から儒学者藤原清範を招いて聖堂を建立し家臣に儒学教育を行っている。雙林寺には県指定重要文化財「長尾昌賢木像と長尾氏位牌」が保存されている。
景仲の没後、北条氏、上杉氏、武田氏による覇権をめぐる戦乱の中、白井長尾氏は、景信、景春、景英、景誠、憲景、輝景、景広と代替わりし、景広城主の時、豊臣秀吉の小田原攻めが開始され、天正18(1590)年、前田利家、上杉景勝の両軍の前に落城した。豊臣方に開城した白井城は徳川家康家臣の本多広孝に与えられ、その子康重は2万石で城主となった。家康領国下では沼田城の真田昌幸を押さえる前線基地の役目を果たしたことになる。康重の岡崎移封後は康重の第2子紀貞が入城したが、寛永元(1624)年死去し、嗣子がなかったため廃城となった。
白井城は本丸を中心とした梯郭式縄張りで、五重の空堀と土塁がめぐる。西側は吾妻川の崖線上に形成され自然の要害となっている。
本丸出入口に現存する野面積石垣の桝形虎口や新曲輪は本多氏の時代に拡張・整備されたものである。桝形虎口前方東側の三日月堀は武田氏築城法によって築城した名残と言われている。また、本丸奥には櫓台石垣があり、本丸背後に一辺15mの笹曲輪が設けられる。本丸北には二の丸、三の丸、北曲輪があり、そいの北西に金毘羅曲輪が残る。北曲輪には大手虎口が開かれる。本丸、二の丸、三の丸の東側は堀を隔てて幅10m程の帯曲輪が長く続き、北曲輪大手虎口に達している。
この城の総曲輪は、北側の吹屋屋敷・松原屋敷と東側の白井宿に囲まれていて、その外側には東西950mの北遠構と、南北650mの東遠構の堀が残っている。松原屋敷では大永年間から永禄年間(1521〜1570)、明珍信家が甲冑を製作していたことが分かっており、吹屋では近年まで鍛冶が行われていた。宿は城東側に南北に形成され、道路中央に雨水排水路が設けられている。
白井城構築後、段丘の境目に、北より多聞院・浄水寺、宝積寺・長源寺・明蔵院の5寺が併立して城防御の役目の一端を果たしていた。また、長尾氏時代の外構んみは、城の護りとして玄棟院、薬師、愛宕神社、神名宮といった寺社が配置され、後になって源空寺が建った。源空寺は本多氏の創建と伝えられている。
(看板資料より)


二の丸


三の丸


北郭


帯郭


土塁


三日月堀

 



2005年04月30日

白井城は利根川と吾妻川の合流点に突き出した台地の先端に自然の要害を利用して築かれた城である。全体が三角形に近い構造で、城の中心である本丸は吾妻川沿いにあって西側は断崖に面しており、それ以外の方角は高さ3〜4メートルの土塁に囲まれている。北側には桝形門があり、太田道灌が指導したとの伝承が残る石垣が現存する。本丸を出て深い掘を土橋で渡ると北へ二ノ丸・三ノ丸と続き、その間にも堀が残っている。三ノ丸の外側には北の守として北郭・金毘羅郭があり、本丸の南東にはささ郭・南郭・新郭が連なっている。さらに城域の北と東には、それぞれ北遠構(きたのとおがまえ)・東遠構(ひがしのとおがまえ)の掘があって総郭(城下)を囲む構造になっていた。なお、城の護りの一部として、玄棟院(曹洞宗)・源空寺(浄土宗)をはじめとする大小の寺院が配置されている。また白井城の南東には仁居谷城があり、堀跡等も確認されていて両者の関係が注目される。
いつ頃築かれたかは諸説あるが、15世紀中頃に関東管領山内上杉憲実の信任が厚かった長尾景仲(昌賢)によって築かれたと考えられる。景仲は月江正文禅師を開山とする雙林寺(曹洞宗)や、「白井の聖堂」と呼ばれる学問所を開いたことでも知られている。その子孫も白井城やその周辺をめぐる戦国の攻防の中にそれぞれの名を残したが、天正18(1590)年に豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家に攻略されて開城し、戦国の城としての役割を終えた。その後は徳川家康の関東入りにしたがい本田広孝・康重が城主(2万石、のち5万石)となり、この頃に現在の姿に整備されたと考えられる。康重の岡崎移封後は戸田康長・井伊直孝・西尾忠永・本田紀貞と続くが、寛永元(1624)年紀貞の病没とともに廃城となった。
これ以降の経過は明らかではないが、少なくとも明治時代以降は農地化されていたと思われ、昭和40年代の土地改良事業においても大幅な地形の改変はなく、堀や土塁などの城としての地形が良く残っている。なお、平成16年3月には本丸部分が子持村の史跡に指定され、保存と活用がはかられていくことになった。
(看板資料より)

土塁でめぐらされた本丸

白井城は、上杉、武田、北条の間で頻繁に争奪戦が行われたところであり、情報を整理してみると次のようになるものと思われる。
1567年03月 武田の部将真田幸隆が白井城を攻略
        相越同盟の後上杉方の城となる。
        北条氏康死去後、甲相同盟
1572年 再び真田幸隆が白井城を攻略
1573年 上杉方に白井城を奪われる。
        上杉謙信死去後は北条方の城となる。
        御舘の乱後、武田勝頼の勢力圏内へ。
1582年 武田家滅亡後、滝川一益の城となる。
        織田信長死去後、北条方の城となる。

白井宿から吾妻川の方へ登っていくと白井城にたどり着くことができます。白井城の杭が立っているところには石垣が残っていましたが工事中のポールが立っていました。石垣の内側が本丸と思われますが全体が土塁で覆われており土塁の上を歩くこともできました。城は吾妻川の断崖に面していて本丸の奥の方まで行ってみると吾妻川と榛名山を望むことができます。

白井城からの榛名山

 
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