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山梨県韮崎市

白山城

2014年03月21日

本丸

甲斐源氏武田氏の祖武田信義の要害として築かれた伝承を持つ白山城は、戦国期に武田氏の領国経営の烽火台ネットワークの拠点的城郭として、甲府盆地北部における枢要な位置を占めていた。また新府城防衛の拠点であり重要な役割を担っていた。城郭史では武田氏城郭の典型例として位置付けられ、南北2箇所の烽火台を含め良好な遺構が残されている。武田氏発祥の地の城郭として、甲斐国の政治・文化・社会を考察するうえで学術的価値が極めて高く、武田氏の高度な築城技術を示す城跡としても重要である。
白山城の西側の尾根つづきの背後には標高約882mの八頭山があり、白山城を取り込むように北と南に尾根が延び、その尾根が尽きるところにそれぞれ烽火台が築かれている。北のものを北烽火台、南のものをムク台と呼ぶ。
北烽火台は白山城とは八幡沢を挟んで北西に約600m離れており、標高は約601m。東西方向に長くのびた尾根上を掘切で区切り、そこから東側に土塁が設けられ2段の平坦地がみられる。平坦地は幅10m、長さ50mほどあり、段差のあるところに直径約4mの円形の凹みがある。
(看板資料より)

白山城歴史景観保全地区
白山城は、鎌倉時代初期、甲斐守武田信義が武田の地に館を構えた時、その要害城として構築したものであり、現在二段の土塁と本丸跡が残っています。この城址からは八ヶ岳、茅ヶ岳山麓の眺望に優れ、山体はアカマツを主体にヒノキ、モミなどを混じえた針葉樹で山頂まで覆われており、このように歴史と自然が一体となった特色を保存するため、歴史景観保全地区に指定しています。
祖先が残してくれた貴重な遺産をみんなで守り、後世に伝えていきましょう。
(看板資料より)



2004年04月24日

武田館要害城(白山城)跡略図

国史跡 白山城跡
甲斐源氏逸見源太清光の子信義は、生地逸見から分封して武田庄の庄官となり武田八幡宮で元服して武田太郎と名乗った。信義は居館を武田に構えて要害城を八幡宮のみ並みの山に築き、城山といったが後世、麓の白山社にちなみ白山城とも呼ぶ。
信義ののちは武田一門の一条氏、その支族武川衆の青木、山寺氏が相次いで守ったが江戸初期寛文年間に廃城となった。城跡には本丸、二の丸、三の丸、縦堀、物見道などの遺構が見られる。昭和48年12月15日歴史景観保全地区に指定され、平成13年1月29日に国史跡に指定された。
(看板資料より)

武田信義の時代の城ということは800年以上前の時代のものということになるが、しっかりと遺構が残っていて驚きました。信義の時代の武田館の要害城ということは、甲府で言えば躑躅ヶ崎館に対する要害山城という関係でしょうか。下の写真の場所から徒歩15分の看板がありますが5分もかからずに頂上まで行くことができます。また武田八幡宮や為朝神社もそうでしたが白山城も周囲が高電圧の施設に取り囲まれていて初めは入るのに躊躇しましたが鍵はかかっておらず侵入は自由だそうです。どうやら猿対策の施設のようでした。


 

白山城歴史景観保全地区
白山城は、鎌倉時代初期、甲斐武田信義が武田の地に館を構えた時、その要害城として構築したものであり、現在二段の土塁と本丸跡が残っています。この城址からは八ヶ岳、茅ヶ岳山麓の眺望に優れ、山体は、アカマツを主体にヒノキ、モミなどを混じえた針葉樹で山頂まで覆われており、このように歴史と自然が一体となった特色を保存するため、歴史景観保全地区に指定しています。祖先が残してくれた貴重な遺産をみんなで守り、後世に伝えていきましょう。
(看板資料より)

 

 
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