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神奈川県箱根町

早雲寺

2004年11月13日

早雲寺は、大永元(1521)年、北条早雲の遺命により、その子氏綱によって建立された寺であり、以来北條氏一門の香火所としてその盛衰をともにし現在に至っています。この寺には北條文化の香りを伝える数多くの文化財が残されており北條文化を語るのに欠くとのできない寺です。
(看板資料より)

この日は車で直接早雲寺に行きましたが、箱根町役場に行くと役場の建物の階段のところに早雲寺へ行かれるように書かれた看板があります。ここには武田信玄の長女である黄梅院の墓、もしくはゆかりのある建物があったといわれている?ところだそうで、それを確認すべく訪れたわけですが、結局黄梅院に関する情報を得ることはできませんでした。


北條五代の墓

天正18(1590)年4月5日、豊臣秀吉軍は箱根山を越え早雲寺に入り本陣とした。6月下旬石垣山一夜城が完成すると火を放ち、当時関東屈指の禅刹として威容を誇った早雲寺の伽藍、塔頭寺院は尽く灰燼に帰したのである。7月5日北條氏が降伏し、同11日氏政・氏照は切腹、氏直は高野山に追放され、翌天正19年11月4日逝去した。
なお北條一門では、伊豆韮山城主であった氏規(氏政の弟)が秀吉より大坂河内狭山に約1万石を許され(狭山北條氏)、鎌倉玉縄城主北條氏勝が家康の傘下に入り、下総岩富に一万石を与えられて(玉縄北條氏)、その家系は江戸時代を通じて存続している。早雲寺の再建は、元和・寛永期に当山17世菊径宗存によって着手されるが、その復興に北條両家の外護は欠かせないものであった。
こうして、北條五代の墓は寛文12(1672)年8月15日狭山北條家五代当主氏治によって、早雲公(伊勢新九郎長氏)の命日に竣工したのである。小田原北條氏滅亡から82年後のことである。

北條早雲(1432〜1519)
俗名、伊勢新九郎長氏、備中生。戦国時代初期を代表する武将。京都から駿河今川家に身を寄せ伊豆、相模を攻略。戦国時代の幕を開いた。伊豆韮山で没。享年88歳。

北條氏綱(1486〜1541)
父早雲の遺志を継ぎ武蔵・下総へ進出。小田原北條氏の領国を拡大した。享年56歳。

北條氏康(1515〜1571)
扇谷上杉を滅ぼし関東の覇権を握る。領国経営にすぐれた手腕を発揮した。享年57歳。

北條氏政(1538〜1590)
夫人は信玄の娘黄梅院。信玄の西上を後援。その没後は信長と連携して武田勝頼討伐に加担。やがて秀吉に敗れ切腹。享年53歳。

北條氏直(15762〜1591)
夫人は家康の娘督姫。下野宇都宮氏を降し北條氏最大の領国を形成。上野真田昌幸の名胡桃城を奪取して秀吉と対立し破れる。家康の助命で高野山に流さる。享年30歳。
(看板資料より)


北條幻庵作 庭園


本堂

本堂概要
本尊:釈迦三尊仏(室町時代)
開山:以天宗清(大徳寺83世)
開基:北條氏綱
創建:大永元(1521)年
寛永4(1627)年に再建。現在の本堂は寛政年間に建立された。昭和30年代の改修まで茅葺き寄棟造。
(看板資料より)


県指定重要文化財 梵鐘
元徳2(1330)年鋳造。豊太閤天正18年小田原攻めの時、石垣山一夜城で使用したものです。
(看板資料より)

 


黄梅院
小田原北条家墓所
北条氏政・氏照の墓所
小田原城

 

 
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