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神奈川県小田原市

小田原城


小田原城は室町時代に大森氏が築いた山城が前身で、その後戦国大名小田原北条氏の居城となってから関東支配の中心拠点として次第に整備拡張され、豊臣氏の来攻に備えた城下を取り囲む大外郭の出現に至って城の規模は最大に達し、前例を見ない巨城に発展しました。
小田原北条氏滅亡後は徳川氏の譜代大名である大久保氏が城主となり江戸時代になると三の丸以内に規模が縮小されましたが稲葉氏の時代に行われた大規模な工事によって近世城郭として生まれ変わりました。次いで再び大久保氏が城主となり東海道をおさえ、箱根をひかえた関東地方防御の要として幕末に至りました。明治3年には廃城の方針が出され、城内の主な建物は解体されました。城址は国の史跡に指定され「城址公園」として現在も様々な整備が続けられています。
(パンフレットより)

天守閣

寛永11(1634)年には三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っている。元禄16(1703)年の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊、焼失してしまうが天守閣は宝永3(1706)年に再建され、明治3(1870)年の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていた。
現在の天守閣は昭和35年5月に市政20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に鉄筋コンクリートで外観復元したもの。内部は、古文書、絵図、、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっている。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望でき、よく晴れた日には房総半島まで見ることができる。
(看板資料より)


銅門(あかがねもん)

銅門は、江戸時代の小田原城二の丸の表門で、江戸時代のほぼ全期間を通してそびえていましたが、明治5年に解体されてしまいました。現在の銅門は昭和58年から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年に復元されたものです。銅門の形式は、石垣による枡形、内仕切門、櫓門を組み合わせた枡形門と呼ばれる形式で、本来の工法で復元されています。
(看板資料より)


常盤木門(ときわぎもん)

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅固に造られていた。古絵図などの記録から、江戸時代初期から設けられていたことがわかる。元禄16(1703)年の大地震で崩壊した後、宝永3(1706)年に、多門櫓と渡り櫓から構成される枡形門形式で再建されたものが、明治3(1870)年の小田原城廃城まで姿をとどめていたといわれている。
現在の常葉木門は市政30周年事業として、明治時代初期に撮影された写真などを参考に再建したもので昭和46(1971)年3月に完成した。
常盤木とは常緑樹の意で、門の傍らには往時から松が植えられており、また、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繁栄することを願って常盤木門と名づけられたといわれている。
(看板資料より)


本丸東掘跡

江戸時代の小田原城は、本丸を堀が囲んでいました。この絵図によると、堀は二の丸掘とつながる水掘となっています。発掘調査によってこの本丸東掘の位置が確認され、最も幅があるところでは20m以上もあることが分かりました。そこでこのたび、植木と盛り土により堀の形を表現し、整備しました。この堀を渡るために架けられていたのが常盤木橋で、水鳥の池は掘の名残と言えます。
小田原市教育委員会
(看板資料より)


おもしろ歴史ミュージアム 小田原城歴史見聞館

入場料300円、ここで天守閣への入場も可能なセット券を600円で購入しておくこともできます。内部はウェルカムゾーン、北条五代ゾーン、江戸時代ゾーン、小田原情報ゾーンに分かれていて小田原城の歴史を紹介しています。メインは北条五代ゾーンだと思いますが思ったより詳しい説明でしたが子供も楽しめるように工夫されていると思います。


小田原城小峯曲輪北掘

報徳二宮神社の境内は、戦国時代北条氏によって造成された古い曲輪にあたります。江戸時代前期は雷曲輪、後期には小峯曲輪と呼ばれていました。雷曲輪は全国にも例のない面白い名称ですが、由来ははっきりしません。小峯は天守閣の裏手、西側一帯を指す古い地名なのでこれにちなんだものでしょう。
目の前の空堀は、左手の小峯曲輪を囲む堀の北側の部分です。石垣を用いない土塁と空堀だけの戦国時代の城の原形をとく留めている貴重な遺構です。掘幅は神社境内の土塁から21メートル、深さは現状で5メートル余りですが実際の掘底はさらに2〜3メートルは深くなるでしょう。また掘底には、掘障子と呼ばれる畝状の仕切が設けられていたと考えられています。
正面右手急斜面の高台は本丸の裏手を守る曲輪状地形の屏風岩(現在遊園地)です。小峯曲輪北掘は、今公園となっている屏風岩と本丸との間の本丸西掘と、神社裏門の出口の当たりで合流し、本丸の南麓、現在の市立図書館(南曲輪)前から、常盤木門下の九輪橋の方へ向かっていました。
報徳二宮神社
(看板資料より)


謙信の小田原城包囲
1561年の正月、謙信は上杉憲政とともに厩橋で年を越し、その後関東の諸軍も含めて10万以上の大軍を率いて2月には鎌倉に入りました。その後、藤沢、平塚、大磯と進み3月13日には小田原城攻撃を開始。その後1ヶ月ほど包囲を続けましたが小田原城は落ちず、その後謙信は鎌倉に引き上げて関東管領に就任した。謙信はこの年の9月に信玄と第4回目の川中島の戦いも行っている。

信玄の小田原攻め
上杉謙信の小田原城攻めから8年後、1569年9〜10月に今度は武田信玄が小田原城を攻撃している。当時武田北条今川の同盟は破綻し、信玄は駿河の今川氏真を攻めていたが、北条氏との関係も悪化し駿河攻略に行き詰まっていた。このような状況を打開すべく信玄は佐久から碓井峠を越えて南下して武蔵鉢形城を包囲、さらに南下して郡内の小山田信茂と合流して滝山城を包囲。その後厚木、平塚を経て小田原に向かった。途中、酒匂等に放火して更に城下の蓮池にも放火して10月1日から小田原城攻撃を開始。しかし10月4日にはすぐに囲みを解いて同じ道を引き返した。帰路三増峠で待ち伏せしていた北条氏邦、北条氏照を10月6日に撃破して甲斐に帰っている。この小田原攻めがうまく陽動作戦になり、その後北条軍を相模に引き上げさせることに成功して駿府を再占領している。

 

 
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