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長野県須坂市

須田城

2016年04月30日

百々川の形成する須坂扇状地の扇頂部分に独立峰の臥龍山があるが、須田城はその南西尾根にある城山に構築されている。また城の南直下を百々川流れ千曲川に注いでいる。その千曲川の自然堤防上には福島城があり、須田城の北東の明覚山の東峰にも大岩城(雨引城)がある。これらの諸城を支城として、須田城に拠る須田氏の領域支配が成立していたものと推定される。
弘治・永禄年間(1555-70)に入ると、武田信玄の侵入を契機に須田氏も二家に分裂し、武田氏に属して高井郡にとどまった信頼-信正の家系と、在地性を捨てて上杉氏の家臣団に編入された満親-満統の家系に別れた。
天正10年、上杉景勝の北信濃四郡支配が成立すると、信濃家須田信正は井上氏の旧領を中心として所領を安堵されたが、同13年、安曇郡千見城への出兵を拒否したことから景勝と対立し、福島城において滅ぼされている。その後、越後家須田満親は海津城の城将として信濃に帰国し、引き続き満統らも上杉家家臣として豊臣秀吉との折衝や武蔵国八王子城の城将として活躍している。
(日本城郭体系より)

本郭

城山の山頂に構築された須田城は本郭と別の郭を堀切で二分し、その周囲に帯郭を配置した環郭式山城である。屋敷跡は城の北方直下にあるが、東を臥龍山、南を城山に囲まれており、これらの山を天然の防御施設としている。跡地には昭和6年に人造湖が造成され、現在は龍ヶ池となっているがそれまでは桑畑であった。山城とこの屋敷群を取り囲むように西側に土塁が設けられていたが、現在はそれが拡張されて龍ヶ池の土手となっている。
(日本城郭体系より)

この山城は鎌倉時代から戦国時代まで、現在の日滝から小山にかけての一帯を支配していた須田氏が築いたものです。須田氏は、平安時代、井上地籍に土着した井上氏の分流です。
本拠の城は、本郷にある大岩城とその麓、現在の蓮生寺の辺りと推定されています。従ってこの城は出城的な役割を果したと思われます。
須田氏は戦国時代の武田・上杉の争いで、上杉方につきました。慶長3(1598)年、上杉氏の会津への国替えに伴い、須田氏がこの地を離れた時、この城も廃城となったと考えられます。
(看板資料より)

須坂藩主第13代堀直虎公霊廟

 



2009年05月04日

須田古城跡

この山城は鎌倉時代から戦国時代まで、現在の日滝から小山にかけての一帯を支配していた須田氏が築いたものです。須田氏は、平安時代、井上地籍に土着した井上氏の分流です。
本拠の城は、本郷にある大岩城とその麓、現在の蓮生寺の辺りと推定されています。従ってこの城は出城的な役割を果したと思われます。
須田氏は戦国時代の武田・上杉の争いで、上杉方につきました。慶長3(1598)年、上杉氏の会津への国替えに伴い、須田氏がこの地を離れた時、この城も廃城となったと考えられます。
(看板資料より)

須坂藩主第13代堀直虎公霊廟

臥竜公園内に須田城があるとのことでしたので立ち寄ってみました。興国寺横の駐車場に車を止めてお寺の方から行けば須田城に行かれると教えてもらったのでそこ通りのルートで登って行きました。たいした傾斜ではないのですが、足を痛めていたので思うように登れずかなり厳しかったです。途中までずっとさきほどの興国寺の境内のお墓があってその先に須坂藩主第13代堀直虎公霊廟というものがありました。その先が本郭になっていて須田古城跡の案内板がありました。

 

 
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