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長野県佐久市

正安寺

2014年05月03日

小山田備中の墓

曹洞宗 宝寿山 正安寺要旨
正安寺の発端は延久4(1072)年、荒船山麓の館ヶ沢に端を発し、当時付近に7名の農民が住んでいたと伝えられる。「開創」正安元(1299)年に苦水に移り、当時は寺中36坊を有する大寺であったという。初めは天台宗にして後臨済宗、けだし応永の頃廃寺同様になる。しかし文亀元(1501)年、甲州の総泉院より海秀玄岱禅師が来訪し古城主、内山美作守の助力を得て旧跡を取り立て曹洞宗、正安寺を開創した。
御開山、海秀禅師は天文17(1549)年齢117で示寂している。天文10(1542)年は3世、月舟英文禅師の代、内山城主となった武田家の家臣、小山田備中守の外護を得て堂塔伽藍は、ことごとく現在地に移築された。また、小山田氏は寺領山林を寄進して菩提の為とし、かつ強敵追討祈願のため山林南北の麓に諏訪上下大明神を勧招し、寺号を「勝安」とした。その後、武田信玄が内山城に来城した時、山林御朱印制札並びに「甲守」の山号と「甲守戦勝」の額面を与えられたという。以上はみな当山3世、在山中のことである。ちなみに、3世は小山田備中の兄弟だったという。
当山10世の代に至って山号は「宝珠」とあらたむ。「甲守」は甲州城を守るのに意にして時勢に相応しないこと、また寺有山林の内なる愛宕山は「宝珠」に似たるによりかく名づく、と。「勝安寺」も「正安寺」とあらたむ。正安元年の開創なる故に旧軌に戻せし謂也。
10世はまた、山林を珍重し定めとして老松巨樹はもとより植林せし杉木立の末代までの伐採禁止を遺戒とする。
16世、大梅禅師は山号を「宝寿」に改め、以降今日に至るまで「宝寿山正安寺」と呼称す。なお、当山は現在地においても寛文12(1672)年、宝歴6(1756)年、寛政7(1795)年の三度にわたり全焼の火災にあっている。為に当山資料もまた、ほとんどが灰塵に帰したといわれている。
(看板資料より)

大庫裏


僧堂

送佛場ともいい雲堂ともいう。この坐禅堂は間口8間奥行7間で、文化2(1805)年に応急再建されたものである。往時此処には四来の雲水求道の居士参集し、正法律本山高貴寺開基慈雲忍瑞、黄檗山万福寺14世石窓衍劫等も当処で修行されている。
(看板資料より)


佛殿

羅漢殿とも本殿ともいい間口5間奥行6間の殿堂で平成3年秋の竣工。本尊釈迦牟尼如来、脇侍迦葉阿難尊者は宝暦年中の尊像である。五百羅漢は釈尊滅後、遺経結集のために集まった五百人の高弟のことで五百応真ともいわれる。当殿内の尊像は明治38年復本家10代目陶工の源七従良の作成で、現今当寺のみ存す。
(看板資料より)


大梅禅師墓碑

大梅禅師は禅二宗の中にあって臨済宗の駿河の国(静岡県)の白隠和尚とならび称される曹洞宗の高僧で、曹洞宗大本山総持寺の輪番をも勤めた。
大梅は聞達を一般世間に求めないで山中の草木とともに朽ち果てようとしひたすら、積善修練に志し、広く後進の指導育成につとめ、徳川時代の禅宗振興に大いに寄与した。
天和2(1682)年に生まれ、宝暦7(1757)年76才をもって没する迄曹洞の巨匠として東信地方に大きな足跡をとどめ、多くの法孫を残している。
(看板資料より)

 



2007年10月07日

内山城の近くに正安寺というお寺があって小山田備中の墓があるとのことでしたので立ち寄ってみました。小山田備中というのは郡内の小山田氏とは別の家系ですが、天正10(1582)年に高遠城で戦死した小山田備中守昌行なのか、または父である小山田備中守昌辰のことなのかは不明です。小山田昌辰はもともと上原昌辰といい、武田信玄から内山城を任されているのでその縁でここにお墓があるのかもしれません。
境内は広大で大木も沢山あり歴史を感じます。そして多くの建物があって驚きました。お寺の人に小山田備中の墓の場所を聞いて現地に向いました。一番奥の仏殿の裏側の階段を上りきったところに歴代住職の墓があり、その右側にある塔群のうちのどれかが小山田備中の墓であるとのことでした。

曹洞宗 宝寿山 正安寺要旨
正安寺の発端は延久4(1072)年、荒船山麓の館ヶ沢に端を発し、当時付近に7名の農民が住んでいたと伝えられる。「開創」正安元(1299)年に苦水に移り、当時は寺中36坊を有する大寺であったという。初めは天台宗にして後臨済宗、けだし応永の頃廃寺同様になる。しかし文亀元(1501)年、甲州の総泉院より海秀玄岱禅師が来訪し古城主、内山美作守の助力を得て旧跡を取り立て曹洞宗、正安寺を開創した。
御開山、海秀禅師は天文17(1549)年齢117で示寂している。天文10(1542)年は3世、月舟英文禅師の代、内山城主となった武田家の家臣、小山田備中守の外護を得て堂塔伽藍は、ことごとく現在地に移築された。また、小山田氏は寺領山林を寄進して菩提の為とし、かつ強敵追討祈願のため山林南北の麓に諏訪上下大明神を勧招し、寺号を「勝安」とした。その後、武田信玄が内山城に来城した時、山林御朱印制札並びに「甲守」の山号と「甲守戦勝」の額面を与えられたという。以上はみな当山3世、在山中のことである。ちなみに、3世は小山田備中の兄弟だったという。
当山10世の代に至って山号は「宝珠」とあらたむ。「甲守」は甲州城を守るのに意にして時勢に相応しないこと、また寺有山林の内なる愛宕山は「宝珠」に似たるによりかく名づく、と。「勝安寺」も「正安寺」とあらたむ。正安元年の開創なる故に旧軌に戻せし謂也。
10世はまた、山林を珍重し定めとして老松巨樹はもとより植林せし杉木立の末代までの伐採禁止を遺戒とする。
16世、大梅禅師は山号を「宝寿」に改め、以降今日に至るまで「宝寿山正安寺」と呼称す。なお、当山は現在地においても寛文12(1672)年、宝歴6(1756)年、寛政7(1795)年の三度にわたり全焼の火災にあっている。為に当山資料もまた、ほとんどが灰塵に帰したといわれている。
(看板資料より)


大梅禅師墓碑

大梅禅師は禅二宗の中にあって臨済宗の駿河の国(静岡県)の白隠和尚とならび称される曹洞宗の高僧で、曹洞宗大本山総持寺の輪番をも勤めた。
大梅は聞達を一般世間に求めないで山中の草木とともに朽ち果てようとしひたすら、積善修練に志し、広く後進の指導育成につとめ、徳川時代の禅宗振興に大いに寄与した。
天和2(1682)年に生まれ、宝暦7(1757)年76才をもって没する迄曹洞の巨匠として東信地方に大きな足跡をとどめ、多くの法孫を残している。
(看板資料より)


法堂

法堂は住持説法の道場だが平素は各種の法要儀式に使われている。間口10間、奥行9間の堂は寛政11(1799)年の応急再建である。本尊は聖観音菩薩で頭部は鎌倉期、身体は江戸中期の尊像とされている。是は当寺度重なる祝融の災いに依るものである。
(看板資料より)


僧堂

送佛場ともいい雲堂ともいう。この坐禅堂は間口8間奥行7間で、文化2(1805)年に応急再建されたものである。往時此処には四来の雲水求道の居士参集し、正法律本山高貴寺開基慈雲忍瑞、黄檗山万福寺14世石窓衍劫等も当処で修行されている。
(看板資料より)


佛殿

羅漢殿とも本殿ともいい間口5間奥行6間の殿堂で平成3年秋の竣工。本尊釈迦牟尼如来、脇侍迦葉阿難尊者は宝暦年中の尊像である。五百羅漢は釈尊滅後、遺経結集のために集まった五百人の高弟のことで五百応真ともいわれる。当殿内の尊像は明治38年復本家10代目陶工の源七従良の作成で、現今当寺のみ存す。
(看板資料より)


中門

当仁王門は文化2(1805)年中門として再建され僧堂と衆寮を連絡する廻廊を兼用している。老朽化のため昭和57年修理増工し幅5間半奥行2間である。同年8尺木彫仁王尊像を安置し永平寺秦慧玉禅師導師にて開眼供養されている。
(看板資料より)


内山城

 

 
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