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新潟県長岡市

栃尾城

2007年11月24日

栃尾城は諏訪神社から登るということは知っていたので、車を中央公園の駐車場に止めました。今回は膝のサポーター、ゴアテックスの防水加工の登山靴を準備しておきました。諏訪神社の境内は木の伐採をしていたようで、重機が入っていて更に昨日の雨のせいか足元がぬかるんでいました。諏訪神社の一番奥のところに大きな栃尾城の案内板があったのでそれをみながら栃尾城の全容を確認しました。さて、そこから先はどこから登ればいいのか分からなかったのですが、奥に階段があったのでそれを登って行きました。登りきったところに祠のようなものと大壮の鐘という鐘を鳴らすことができるものがあったのですがそこからはどこに行けばいいのかまた分からなくなってしまいました。しばらくすると軽トラが来たので車を止めて栃尾城の本丸への道を聞いてみたところ快く丁寧に教えてくれました。そして再び階段を登ります。馬場跡、大空濠を経て大きなところに出ましたがそこが千人溜りでした。栃尾市内を見下ろすことができました。そこから更に登っていきましたが喉が渇いてきました。水を持ってくるべきだった!と後悔しましたが、ちょうど泉を発見したのでそこで休憩して水分を補給しました。セーターを着ていましたが、暑くなってきて腕を捲り上げました。

諏訪神社


馬場跡

馬責め場とも呼ばれるこの平地は、その名の示すとおり軍馬の訓練が行われたところです。広さは2900uあり、一隅には池の跡があります。
(看板資料より)


大空濠

この空濠は山頂の松の丸にまで及ぶ長大なもので、口幅15m、深さ7m、長さは300m程もあります。防戦用として重要な役目をもつとともに、山頂への通路としても使用されました。掘った土を左側に土塁として積み上げ濠が深くなるように工夫されています。
(看板資料より)


千人溜り

3000uに及ぶこの平地は栃尾城の大広場であったと考えられ、将兵の訓練などが行われたものと思われます。
(看板資料より)


二の丸

登りはじめて20分くらいで本丸と二の丸の分かれ道のところに到着しました。右が本丸方面、左が二の丸方面、そして真直ぐ降りるとトイレのようなものがありました。最初は二の丸に行ってみました。階段を登り切ると屋根付きの休憩所がありました。また奥まで行ってみると下の景色を見渡すことができました。祠のようなものもありました。

本丸に次いで重要な場所です。濠でまわりが区切られ、独立した防衛遺構です。
(看板資料より)


本丸

二の丸に続いて本丸方面に向いました。階段を少し登ったところに栃尾城の案内板があってここにも鐘を鳴らすことができるものがありました。そこから少し行ったところが本丸とのことで、平らになっていました。栃尾市内方面は断崖絶壁で木が無かったので市内を一望することができました。天気が良かったので遠くの山も見渡すことができました。左から守門岳、八十里越え、矢筈山、粟ヶ岳などの山を見渡すことができました。ちょうど本丸に来ている人がいたので少し話を聞かせてもらいましたが、昔は本丸には大きな松の木が沢山あったそうなのですが、20年前くらいに台風の被害で木が折れてしまい、その後全部取り払ってしまったとのことでした。また、本丸の先は行き止まりとのことで、先ほどのトイレのある方向に下って行っても諏訪神社の近くに下りていくことができるとのことでしたのでそちらの道を降りていくことにしました。トイレの建物を過ぎて少し降ったところから左側に入って行く道があったのでそちらのほうに行ってみました。中の丸、びわ丸、そして大きな空濠を経て狼煙台詰曲輪跡まで行くことができました。ここは紅葉がきれいでした。また沢山の小さな蝶がいました。更に上に続いている道を登ってみましたが、もうそれ以上は進めそうになかったのでそこまでにして引き返しました。そのまま先ほどの道に戻って下に降っていきました。するとあっという間に栃尾城本丸への登山道の駐車場に到着しました。ここまで車で来てしまえばそんなに階段を登ることなく本丸まで行くことができると思います。

本丸からの景色

史跡 栃尾城
栃尾城は、南北朝時代の正平年間に、下野の将芳賀禅可が下越後の守護として一時ここに寄り、当山を縄張りし要害堅固な山城として築いたといわれ、室町時代には、長尾氏の被官本庄氏歴代の持城となった。
越後の雄上杉謙信は、少壮時代(14才〜19才)栃尾に居て、瑞輪寺門察和尚の薫陶を受けるとともに城主本庄慶秀の補翼により中越の動揺を静めて勇名を馳せた。
謙信没後の御館の乱(天正6年〜8年)の際、城主本庄秀綱は上杉景虎を支持して上杉景勝と戦って滅びたが、城は引き続き上杉氏の番城として景勝揮下の諸将が交替で在城した。
慶長3年上杉氏の会津国替の後は、新領主掘秀治の将神子田長門守(八郎右ェ門)が在城したが、慶長15年掘氏の改易に伴い廃城となった。
けわしい自然を利用して空濠で仕切った本丸以下の諸曲輪を一列に並べ、東側中腹に広大な千人溜りを備えるという雄渾な縄張りや、本丸を固めた鉢巻石垣、山腹まで掘通した大規模な縦空濠など戦国時代の山城遺構の好例である。
なお、この城は籠城用の要害であって、城主の平素の政庁居宅は南麓の大野町地内の字館屋敷にあった。
(看板資料より)

中の丸、びわ丸付近

空濠跡


三の丸

アスファルトの道路をどんどん下って行くと右側に上っていく階段を見つけました。どこに行かれる階段なのか分かりませんでしたがしばらく周辺を見回しているうちに、この階段を登っていくと三の丸に行かれる案内板を発見してしまいました。もう栃尾城の見学は終わったと思っていましたがせっかく来たので行ってみることにしました。この階段が登っても登ってもなかなか一段落せず、かなり疲れました。私も色々な山城に登りましたが栃尾城はかなり規模の大きな山城だと思います。もうこの時点で1時間以上経過していました。15分ほど登ったところにまた鐘を鳴らすところがあったのでここで一休みして鐘を鳴らしました。ここからまた下の景色を見渡すことができました。そこから五島丸、三の丸、松の丸を経て更にどんどん歩いて行ったらなんと先ほどのトイレのところに出てしまいました。トイレの所から三の丸に行けたのです。ここに案内板を作ってくれればこちらの道を通って降りていくことができると思います。栃尾城に2回も登ってしまったのですね。さすがに疲れました。喉も渇いたのでトイレの前にあった水のみ場で水を飲みました。冷たくて美味しい水でした。今度はどこから降ろうか悩みましたがまたアスファルトの道路で下って行くことにしました。先ほどの階段を登るところまで行って階段とアスファルト道路の間にある狭い降り道を降りていきました。すると途中、墓域を経て愛宕神社から宝光院に出てきました。愛宕神社の参道は紅葉がきれいでした。諏訪神社から登って約1時間半で降りてきました。朝はいい天気だったのですが、私が降りてきた頃には既に曇天になっていました。早く登って良かったです。

五島丸

松の丸

 
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