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山梨県甲州市

鳥居畑古戦場

2005年05月29日

この地まで主君に尽くしてきた武田家の家臣が小勢で、織田徳川勢数千人と激しく抗戦して敗れた武田家最後の激戦地です。
(現地案内棒記載文章より)

景徳院から少し下ったところにあります。ちょうど景徳院と四郎作古戦場の間に位置します。



2003年08月30日

 

時、天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走続ける勝頼公の一行が、ようやく笹子峠の麓、駒飼に着いた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り、城主小山田信茂が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦することに決め、付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒等43人、初鹿野から日川の峡谷づたいに田野の里に入った。その時かねて侫人の讒言により、主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳正友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞うたのである。
その夜、天目山の頂きは残雪を残して寒気厳しく疲れ果てた主従は明日の運命を悟りきってか深い眠りにおちていた。明くれば3月11日谷底の里、田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押し寄せてきた。織田信長の先鋒滝川一益、川尻鎮吉らの軍勢約4千である。勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き新羅三郎以来武田家に相伝された楯無の鎧を着せて「かん甲」の式を挙げた(現在景徳院内に有り)
秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳正友信、土屋昌恒等百人に満たさる小勢を以って駒場口より攻め寄せる織田軍と戦い撃退すること数度以って勝頼公として従容死を決するを得せしむ。生害石、甲将殿直前に三枚の扁平なる石有り、勝頼公、夫人、北条氏世子信勝公の生害せし処(現在景徳院内に有り)
「山雲月を掩ふて夜色自ら惨たり」と史書はこの時の様子を伝える。武田家滅亡最後の激戦地なり。
(看板資料より)

 

 
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