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長野県茅野市

上原城

2014年05月18日

諏訪氏城跡上原城の案内
この道から左方一帯は、長野県指定の諏訪氏城跡上原城です。入ってすぐ右手は大空掘で西方金比羅神社周辺の一帯は三の郭で、ここには中世の築城以来、東方永明寺山より木管により引水された飲料水が湧出(現在はヒューム管に改修)しています。
その三の郭から登ると二の郭に巨大な物見石があり、そこから5米ほど登ると上原城下町をはじめ、諏訪盆地一帯を眺望できました。
現在でも木立の合い間から諏訪盆地を貫流する上川、宮川とその遠方に諏訪大社上社前宮、本宮、さらに真下には、上原城下町当時の鍛冶小路、葛井神社、備前坂などを見ることができます。
(看板資料より)


大空掘


三の郭からの景色

三の郭

金毘羅神社

物見石


諏訪氏城跡上原城
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高978m)にある。その遺構としては主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空掘、物見石等があり、上原城の中腹の小字板垣平(およそ1ha)には居館跡がある。
この城は、北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等をひかえ、前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。築城の年代は詳らかではないが、室町時代の後期、文正元(1466)年頃より、諏訪惣領家当主信満がこの城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満−政満−頼満−頼隆−頼重の5代70余年に渡り諏訪地方を統治したが、天文11(1542)年7月、甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。
なお、三の郭にある金毘羅神社は、頼岳寺18世尊応が文化2(1805)年に頼岳寺の鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
(看板資料より)


帯曲輪


上原城主郭跡

この主郭跡は金毘羅山の最高所にあり、標高978mである。主郭の大きさは南北30m、東西20mほどで三方に低い土塁跡を残し、南西隅に虎口を開いている。
物見石のある平地がニの郭で、金毘羅神社のある所が三の郭となりこの城の中枢部である。居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、幾重にも防御されている。
東西は上幅30mにおよぶ大空掘を隔てて、はなれ山の出郭があり、その先を空掘で背後の山から切りはなしている。南面には畝形を思わせる竪掘を連続して施し、北面には幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張りで構成されている。
水の手は背後の湧水と北西下の沢水が利用されたようであるが、城内へ引水されたことも考えられる。理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも小郭が配されていて、小規模ながら堅固な備えで戦国時代の山城の姿をよく残している。
(看板資料より)

 



2003年07月05日

諏訪氏城跡上原城の案内
この道から左方一帯は、長野県指定の諏訪氏城跡上原城です。入ってすぐ右手は大空掘で西方金比羅神社周辺の一帯は三の郭で、ここには中世の築城以来、東方永明寺山より木管により引水された飲料水が湧出(現在はヒューム管に改修)しています。
その三の郭から登ると二の郭に巨大な物見石があり、そこから5米ほど登ると上原城下町をはじめ、諏訪盆地一帯を眺望できました。
現在でも木立の合い間から諏訪盆地を貫流する上川、宮川とその遠方に諏訪大社上社前宮、本宮、さらに真下には、上原城下町当時の鍛冶小路、葛井神社、備前坂などを見ることができます。
(看板資料より)


物見岩

諏訪氏城跡上原城
上原城跡は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(標高978m)にある。その遺構としては主郭、土塁、二の郭、三の郭、曲輪、空掘、物見石等があり、上原城の中腹の小字板垣平(およそ1ha)には居館跡がある。
この城は、北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等をひかえ、前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪上社(本宮前宮)を見下ろした中世の典型的な山城である。築城の年代は詳らかではないが、室町時代の後期、文正元(1466)年頃より、諏訪惣領家当主信満がこの城の中腹に館を構え、上原郷に城下町をつくった。その後、諏訪氏は信満−政満−頼満−頼隆−頼重の5代70余年に渡り諏訪地方を統治したが、天文11(1542)年7月、甲斐の武田晴信(信玄)によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。
なお、三の郭にある金毘羅神社は、頼岳寺18世尊応が文化2(1805)年に頼岳寺の鎮守神として、四国の讃岐より金毘羅大権現を勧請してこの地に祀ったものである。
(看板資料より)


上原城主郭跡
この主郭跡は金毘羅山の最高所にあり、標高978mである。主郭の大きさは南北30m、東西20mほどで三方に低い土塁跡を残し、南西隅に虎口を開いている。
物見石のある平地がニの郭で、金毘羅神社のある所が三の郭となりこの城の中枢部である。居館板垣平からの登路が大手に当り、途中所々に小郭を置いて、幾重にも防御されている。
東西は上幅30mにおよぶ大空掘を隔てて、はなれ山の出郭があり、その先を空掘で背後の山から切りはなしている。南面には畝形を思わせる竪掘を連続して施し、北面には幅広い曲輪が置かれ、これらの曲輪はそれぞれ二の郭、三の郭と武者走りと呼ばれる通路で連結され、全体に輪郭式の縄張りで構成されている。
水の手は背後の湧水と北西下の沢水が利用されたようであるが、城内へ引水されたことも考えられる。理昌院平の下方にもしっかりした郭が続き、周囲の尾根上にも小郭が配されていて、小規模ながら堅固な備えで戦国時代の山城の姿をよく残している。
(看板資料より)

 

 
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