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長野県富士見町

三光寺

2016年12月18日

武田晴信が開基したので、現在でも花菱の紋を用いている。
(長野県町村誌より)


応永2(1395)年に開基された。武田信玄の祖信重が僧となり、父信満のために城山の東麓の字満願寺に真如山満願寺を建て、真言の道場にしたのが起源という。
(長野県の武田信玄伝説より)
寺の開創は応永24(1417)年と伝え、武田氏の創立による真言宗の寺で、真如山満願寺だといわれている。
(信州の仏教寺院より)
甲州街道蔦木宿はかつて信州の代表的な宿場町の一つであった。今も随所にその面影を残している。南アルプス連峰の最北端と八ヶ岳山麓の間を縫うように釜無川が東流し、併走する甲州街道は戦国〜江戸時代には往還の要路であり、甲州より信州への入口の宿場でもあった。この地に三光寺は所在する。
三光寺は初め真如山満願寺と言い、真言宗に属し甲斐の武将武田氏により創立された。天正2(1574)年門鶴和尚が住職して曹洞宗となる。慶長年間、産宮の辺に移転して萬休山禅長寺に、更に西の河原に移転して明星山三光寺と改める。二代門鎖和尚の代に寺基を鹿島山とする。三代恵燈和尚代に寺入り事件が起こり、和尚は泉州蔭涼寺に退かれた。以上を当山では前住三代と称す。
元禄7(1694)年諏訪頼水公により再開基され、茅野市頼岳寺4世群亀応逸大和尚を勧請して開山とす。寺門の基礎がようやく定まり、爾来法燈が連綿として絶えることなく23世の今日に至る。
(パンフレット記載文章より)

 



2008年12月30日

武田晴信が開基したので、現在でも花菱の紋を用いている。
(長野県町村誌より)

応永2(1395)年に開基された。武田信玄の祖信重が僧となり、父信満のために城山の東麓の字満願寺に真如山満願寺を建て、真言の道場にしたのが起源という。
(長野県の武田信玄伝説より)

寺の開創は応永24(1417)年と伝え、武田氏の創立による真言宗の寺で、真如山満願寺だといわれている。
(信州の仏教寺院より)

甲州街道蔦木宿はかつて信州の代表的な宿場町の一つであった。今も随所にその面影を残している。南アルプス連峰の最北端と八ヶ岳山麓の間を縫うように釜無川が東流し、併走する甲州街道は戦国〜江戸時代には往還の要路であり、甲州より信州への入口の宿場でもあった。この地に三光寺は所在する。
三光寺は初め真如山満願寺と言い、真言宗に属し甲斐の武将武田氏により創立された。天正2(1574)年門鶴和尚が住職して曹洞宗となる。慶長年間、産宮の辺に移転して萬休山禅長寺に、更に西の河原に移転して明星山三光寺と改める。二代門鎖和尚の代に寺基を鹿島山とする。三代恵燈和尚代に寺入り事件が起こり、和尚は泉州蔭涼寺に退かれた。以上を当山では前住三代と称す。
元禄7(1694)年諏訪頼水公により再開基され、茅野市頼岳寺4世群亀応逸大和尚を勧請して開山とす。寺門の基礎がようやく定まり、爾来法燈が連綿として絶えることなく23世の今日に至る。
(パンフレット記載文章より)


一葉観音

別名、蓮葉観音とも、南溟観音ともいう。中国で修行を了えられた道元禅師は、安貞元(1227)年帰国の途中、暴風にあい、船上に黙座して祈念するや、観音菩薩が、蓮葉に乗って、海面に浮び、風波忽ち治ったといわれる。その形姿の観音像である。
原型は帰着地熊本市川尻町南溟山観音寺に伝えられた木版の一葉観音で、道元禅師ご自身の係賛が付されている。
苦難、災難等、消除の観音様として、古くから厚く信仰されてきたご尊像である。当山開創参百年を記念し、かつ、人々の和楽を祈願して迎聖した。
(看板資料より)

 

 
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