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善光寺本堂(国宝)
現在の善光寺本堂は、宝永4(1707)年幕府御抱えの名匠甲良宗賀の設計により再建された、江戸時代中期の仏教建築を代表する傑作です。
高さ約25.82m、奥行き約53.67m、総面積1425.6uの大伽藍は、檜皮葺の二重屋根を持ち、最奥部の仏堂から手前に長大な礼堂を繋ぐ棟の形が、上空から見ると、ちょうど鐘を打つ撞木のかたち(T字形)に見えることから、撞木造とよばれています。本堂の内部は入口から板敷きの外陣、畳敷きの内陣、最奥部の内々陣にわかれます。内々陣の正面奥左寄り、金襴の戸帳の懸かるところがご本尊の安置される瑠璃壇、右寄りが開山本田善光卿と奥方の弥生の前、ご子息の善佐の像が安置される三卿の間です。さらに、三卿の間の右には、ご本尊直下の真っ黒な回廊をめぐりご本尊と結縁する「戒壇めぐり」の入口があります。
7年に1度の善光寺御開帳(前立本尊御開帳)では、ご本尊のご分身、前立本尊さまが宝庫より内々陣にご遷座され、そのお厨子がご開帳されます。御開帳期間中、本堂前庭には如来さまのおいのちを象徴する大回向柱が建立され、如来さまとの結縁に集う善男女に大慈悲の光明がふりそそぎます。
(看板資料より)
本堂正面に立つ、一辺45センチ高さ10メートルの巨大な角塔婆を、大回向柱といいます。大回向柱に結ばれた善の綱は、本堂内々陣へと導かれ、前立本尊中尊阿弥陀如来の右手へと繋がれています。この大回向柱に触れることで、前立本尊との結縁が果せるといわれています。
大回向柱に書かれた梵字は、上からキャ、カ、ラ、バ、アと読み、宇宙の構成要素である五大(空、風、火、水、地)が円満に備わっている姿、すなわち五輪を表し、大宇宙に遍満する仏様のいのちを象徴しています。その下には「奉開龕前立本尊」(前立本尊のお厨子をお開き申上げます)と書かれ、前立本尊の御開帳を高らかに宣言しています。
大回向柱は、松代町(長野県松代)の松代町大回向柱寄進建立会より寄進されるならわしとなっています。松代を城下町とする松代藩は、現本堂が再建されるのにあたり多大なる貢献がありました。
元禄14年2月、松代藩主真田伊豆守幸道は、幕府より本堂普請を仰せつかりました。16年8月、小山田平太を惣奉行に、以下諸掛役人40余人、足軽百人を出役させ、宝永元(1704)年9月細工を始め、宝永4年6月藩主幸道参詣出工事視察、7月1日上楝、8月13日入仏、8月15日に供養を行いました。3年の歳月をかけ、現本堂は松代藩の普請支配と外護により完成しました。
本年奉納された回向柱は、松代町の中村神社境内に立つ樹齢約250年の杉が使われました。
(看板資料より)
牛にひかれて善光寺参り
むかし、善光寺から東に十里、信濃の国小県郡に強欲で信心が薄く、善光寺に一度もお参りしたことのないお婆さんが住んでいました。ある日、川で布をさらしていたところ、どこからか一頭の牛が現れ、角に布を引っ掛けて走りだします。そこで慌てたお婆さんは布おしさに取り戻そうと一生懸命に追いかけました。そして気がついてみるとそこは善光寺。牛の姿は無く、角に引っ掛けられていたはずの布は如来の厨子の前にありました。実は布をさらった牛は善光寺如来の化身だったのです。そのことに気付いたお婆さんは自分の不信心を悔い、善光寺如来に手を合わせ、以来信心深くなって、善光寺にも度々参詣に訪れ、極楽往生を遂げたとのこと。
また、お婆さんが住んでいた近くの釈尊寺(布引観音)の寺縁起にもなっています。
(看板資料より)
7年に一度の御開帳に行ってきました。御開帳は5月31日で終わってしまうのでなんとか間に合いました。期間中は600万人の人が全国から訪れたそうで、ゴールデンウィーク期間中はディズニーランドに行った人数をも上回ったのだそうである。我々は朝6時前に到着しましたが前立仏を見るための行列は既に善光寺本堂を一周しており本堂の中に入るのにかなりの時間がかかりました。写真撮影は禁止とのことだったので本堂の中での様子を録音をしました。 |