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山梨県甲府市

甲斐善光寺

2013年09月01日

善光寺山門付棟札

 
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5間3戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4(1766)年に上棟式がおこなわれた。
両脇に仁王像を安置し、二階部分は手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗の丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもしだされる雰囲気は本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。
(看板資料より)


定額山浄智院善光寺由来
定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が永禄年中、川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、本尊阿弥陀如来その他、諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第37世鏡空上人を開山に迎え、信濃善光寺開基本田善光公追葬の地、ここ板垣の郷に新たに建立さられたものである。
その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、浄土宗甲州触頭として、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し、荘厳を極めるに至った。
ところが、宝暦4年2月、門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有に帰してしまった。そこで中興癡誉、性誉両上人が再興勧請に奔走し、三十有余年の歳月を費やして寛政8年8月金堂が落慶した。
これが現在の伽藍で、昭和30年6月、金堂、山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間に渡り大修理が行われた。金堂は日本有数の大建築として著名である。
本尊は、建久6年、尾張の僧定尊が霊夢により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で、重要文化財の指定を受けている。このほか文禄年間に甲斐国主浅野長政公が他寺より動坐した木造阿弥陀三尊像二組もそれぞれ重要文化財である。また県指定文化財の木造源頼朝像、木造釈迦涅槃像、当麻曼荼羅図、梵鐘など多数の寺宝を所蔵している。寺域には文禄2年、朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある。
当山は創建以来時に盛衰はあったが、全国の深い尊信を集め今日に至っている。
(石碑記載文章より)

定額山浄智院善光寺の概要
当山は、開基武田信玄公が川中島の合戦に信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、永禄元(1558)年本尊阿弥陀如来を甲斐に招来し、大本願第37世鏡空上人を開山に迎え創建された古刹である。その際多数の寺宝も移入され、正和2年銘の古鐘、法然上人、源頼朝、熊谷直実等の優れた宝物が安置されている。その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ、本坊三院十五庵三坊を有する大寺院として浄土宗甲斐触頭を務めていた。
ところが宝暦4(1754)年2月門前の農家の家の失火により堂塔悉く烏有に帰してしまった。そこで中興癡誉上人、性誉霊海上人が再興勧進に奔走し、実に30有余年の歳月を費やして寛政8(1796)年8月金堂が竣工した。
これが現在の伽藍で、昭和30年6月金堂山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間にわたり大修理が行われ今日の偉容をみるに至った。
なお、建久6年銘のある本尊銅造善光寺如来像をはじめ、文禄年中国主浅野長政が他寺より動坐した木造阿弥陀三尊像二組が重要文化財に指定されている。
(看板資料より)

甲斐善光寺の棟木
昔、遠光寺村というところに、お琴という美しい娘がおりました。お琴には、夫となるべき若者がいて、二人は仲むつまじく過しておりましたが、ある青い月のきれいな晩に、若者は、「私は、高畑村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」と涙ながらに言いました。そして「私は切られても、千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら、動きましょう」と言い残すと、すうっと消えてしまいました。
さて、そのあしたのこと、柳の大木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の大木はするすると動いたということです。
(看板資料より)

木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側)
木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫左側)
保存庫内の左右に対置された二組六躰の阿弥陀三尊像は、いずれも檜材寄木造りの漆箔像で、作風から両者に多少の相違はあるが、浄土思想が興隆にむかう藤原中・末期の造顕と推定される。
これらは甲斐の国主浅野長政が甲府在城中(1593-1600)この寺の本堂荘厳のため、右側は元宮地村(現韮崎市)大仏堂・左側は元千塚村(現甲府市)光増寺から動坐したもので、法量は両中尊とも約1.4メートル、脇侍はそれぞれ右方1.54メートル、左方1.04メートル前後である。
藤原末鎌倉初期の願成寺(韮崎市)阿弥陀三尊像とともに、かつての甲斐源氏の信仰を思わせる名作といえる。
(看板資料より)

 



2005年05月29日

阿闍梨の井戸

浄土宗の開祖法然上人の師であった、肥後阿闍梨皇円上人は、嘉応元(1169)年6月に、遺言として次のようなことを語りました。「私はこのたび魂を遠州桜が池(静岡県掛川市)に移し、弥勒菩薩下生の56億7千万年後まで、蛇の姿となって待とうと思う。しかしその間に心がゆるむといけないので、毎年大晦日の夜、信濃善光寺の阿弥陀如来様に参詣し、仏縁が切れないようにしたい。ついてはその一夜の宿の場所として、善光寺の金堂辺りを穿とうと思う。」
翌年、弟子の澄算上人が信濃善光寺に参詣したところ、果して金堂の後に井戸がありました。寺僧に由来を尋ねたところ、大晦日に突然大地が震動し大穴があき、清水が満ちあふれたとのことでした。そこで澄算は涙を流しながら、皇円阿闍梨の精魂が善光寺に参詣したことを寺僧に告げたのです。そのときからそこは阿闍梨の井戸と呼ばれるようになりました。
さて、善光寺の御本尊は、武田信玄公によって一時甲斐に遷坐されました。その入仏供養が終わった元亀3(1572)年の歳末、この場所に突然穴があき、清水が湧き出しました。信濃から御本尊とともに移ってきた寺僧たちは、皇円阿闍梨の精魂が、如来様を慕ってやってきたのだと感嘆し、信濃と同様に阿闍梨の井戸と呼ぶことにいたしました。江戸時代の疫病流行の折には、信心ある人がこの井戸の水を飲むとたちまちに平癒したと伝えられております。現在この井戸は埋まっているように見えますが、実は金堂前の手洗場と池に水が引かれており、豊かな水量で多くの参詣の皆様に親しまれております。
(看板資料より)

前回訪れた時に知った小山田信茂の首塚を見るために甲斐善光寺に寄りました。到着したときはまだ朝7時半くらいだったので善光寺に入ることができず、先に小山田信茂の首塚を見学しました。善光寺に戻ってきてから北の方から境内に入ったのですが、案内板を見て阿闍梨の井戸というものがあることを知り、犬の散歩をしていた近所の方に場所を尋ねて井戸を発見することができました。

 



2005年01月09日

定額山浄智院善光寺由来
定額山浄智院善光寺は、武田信玄公が永禄年中、川中島の合戦の折、信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、本尊阿弥陀如来その他、諸仏、寺宝、大梵鐘に至るまでことごとく甲斐に招来し、大本願第37世鏡空上人を開山に迎え、信濃善光寺開基本田善光公追葬の地、ここ板垣の郷に新たに建立さられたものである。
その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、浄土宗甲州触頭として、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ本坊三院十五庵の大伽藍を有し、荘厳を極めるに至った。
ところが、宝暦4年2月、門前の農家の失火により類焼し、堂塔ことごとく烏有に帰してしまった。そこで中興癡誉、性誉両上人が再興勧請に奔走し、三十有余年の歳月を費やして寛政8年8月金堂が落慶した。
これが現在の伽藍で、昭和30年6月、金堂、山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間に渡り大修理が行われた。金堂は日本有数の大建築として著名である。
本尊は、建久6年、尾張の僧定尊が霊夢により造立した金銅善光寺式一光三尊阿弥陀如来像で、重要文化財の指定を受けている。このほか文禄年間に甲斐国主浅野長政公が他寺より動坐した木造阿弥陀三尊像二組もそれぞれ重要文化財である。また県指定文化財の木造源頼朝像、木造釈迦涅槃像、当麻曼荼羅図、梵鐘など多数の寺宝を所蔵している。寺域には文禄2年、朝鮮の役で戦病死した国主加藤光泰公の墓所などもある。
当山は創建以来時に盛衰はあったが、全国の深い尊信を集め今日に至っている。
(石碑記載文章より)

定額山浄智院善光寺の概要
当山は、開基武田信玄公が川中島の合戦に信濃善光寺が兵火にかかるのを恐れ、永禄元(1558)年本尊阿弥陀如来を甲斐に招来し、大本願第37世鏡空上人を開山に迎え創建された古刹である。その際多数の寺宝も移入され、正和2年銘の古鐘、法然上人、源頼朝、熊谷直実等の優れた宝物が安置されている。その後、江戸時代にも歴代国主の帰依と保護を受け、金堂、山門、三重塔、鐘楼をはじめ、本坊三院十五庵三坊を有する大寺院として浄土宗甲斐触頭を務めていた。
ところが宝暦4(1754)年2月門前の農家の家の失火により堂塔悉く烏有に帰してしまった。そこで中興癡誉上人、性誉霊海上人が再興勧進に奔走し、実に30有余年の歳月を費やして寛政8(1796)年8月金堂が竣工した。
これが現在の伽藍で、昭和30年6月金堂山門共に重要文化財に指定され、同32年より5年間にわたり大修理が行われ今日の偉容をみるに至った。
なお、建久6年銘のある本尊銅造善光寺如来像をはじめ、文禄年中国主浅野長政が他寺より動坐した木造阿弥陀三尊像二組が重要文化財に指定されている。
(看板資料より)

甲斐善光寺の棟木
昔、遠光寺村というところに、お琴という美しい娘がおりました。お琴には、夫となるべき若者がいて、二人は仲むつまじく過しておりましたが、ある青い月のきれいな晩に、若者は、「私は、高畑村にある大きな柳の木の精です。あす善光寺の棟木になるため切り倒されてしまうので、お別れしなければなりません」と涙ながらに言いました。そして「私は切られても、千人二千人の力では動きません。もしあなたが来て声をかけてくれたら、動きましょう」と言い残すと、すうっと消えてしまいました。
さて、そのあしたのこと、柳の大木は切り倒されましたが、いくら人夫を増やしても動きません。そこで、お琴が泣く泣く今様をうたうと、柳の大木はするすると動いたということです。
(看板資料より)

木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫右側)
木造阿弥陀如来及び両脇侍像(保存庫左側)
保存庫内の左右に対置された二組六躰の阿弥陀三尊像は、いずれも檜材寄木造りの漆箔像で、作風から両者に多少の相違はあるが、浄土思想が興隆にむかう藤原中・末期の造顕と推定される。
これらは甲斐の国主浅野長政が甲府在城中(1593-1600)この寺の本堂荘厳のため、右側は元宮地村(現韮崎市)大仏堂・左側は元千塚村(現甲府市)光増寺から動坐したもので、法量は両中尊とも約1.4メートル、脇侍はそれぞれ右方1.54メートル、左方1.04メートル前後である。
藤原末鎌倉初期の願成寺(韮崎市)阿弥陀三尊像とともに、かつての甲斐源氏の信仰を思わせる名作といえる。
(看板資料より)


善光寺山門付棟札
5間3戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦4(1754)年の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和4(1766)年に上棟式がおこなわれた。
両脇に仁王像を安置し、二階部分は手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗の丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもしだされる雰囲気は本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。
(看板資料より)


お咳婆さんの石

この大きな石は、「お咳婆さんの石」と呼ばれています。いつの時代からか、百日咳などに苦しむ者が、全快したら飴を奉納する約束をして祈願すれば、効験が著しいと言われておりました。同様に信仰されてきた石は、甲府市千塚など各所にもあるといわれております。
(看板資料より)


加藤光泰の墓

加藤遠江守光泰は、天正19(1591)年から文禄2(1593)年まで甲斐国の領主であった。文禄2年に豊臣秀吉の命を受け朝鮮へと出兵するが、同年8月29日に病死する。甲斐国在任中の2年間に甲府城の築城工事を受け継いだが、完成を見ることなく死亡した。
この五輪塔は江戸時代中頃の元文4(1739)年に、彼の子孫によって建てられたもので、光泰の死後146年経ってから建てられた、祖先崇拝の供養塔である。
(看板資料より)


善光寺銅鐘

本銅鐘は、正和2(1313)年に補鋳されたことが銘によってわかる。治承3(1179)年と文永4(1267)年の善光寺火災の折、火をうけてその都度修理されている。鐘の周囲は4つに区分され、八葉複弁(蓮の花)をきざんだ撞座があり、鐘乳は総計100個つくられている。鐘の肩の部分は大変力強く、鎌倉時代の風格を表わしており、美術的価値の高い遺品である。なお、本鐘は武田信玄によって長野市善光寺より本尊その他とともに移されたものである。
(看板資料より)


霊牛碑

江戸芝牛町に、大切に飼われていた牛がおりました。延宝6(1678)年5月下旬のこと、その主人の夢に三晩続けて牛が現われ、「私を甲斐善光寺へ参詣させてください。そうすれば、必ずこの家は末長く栄えるでしょう。」と告げたのです。主人は不審に思っていると、6月初め牛は自ら小屋を出て、西に向って駆け出してしまいました。主人はあわてて後を追ったのですが、捕まえることができず、先日の夢の告げも思いあわせ、放っておくことにいたしました。一方この牛は、四谷口から甲州街道をひた走り、6月18日板垣村善光寺に到着し、金堂に参詣いたしました。四足を折り伏して頭を垂れる様は、まことに人が善光寺の如来様を拝むかのようであったと申します。数刻の後、おもむろに立ち上がり、金堂の東側に駐まること7日間、8日目にようやく帰路につきました。
江戸に帰った牛は、30日ばかりして突然死亡しましたが、その体には円光が輝いていたということです。主人は、日頃信仰する阿弥陀如来様の再来かとねんごろに供養し、牛の角を当山に寄進したのです。一本の角はこの地に埋め、五輪塔を建立して、信心深い牛の末代までの記念といたしました。その後、霊夢のごとく主人の商売は繁盛し、福徳円満に暮らしたと伝えられております。そのため、開運福徳の霊牛として、この碑を参詣する人が絶えないのです。なお、もう一本の角は寺宝として現存しており、宝物館で一般に公開いたしております。
(看板資料より)

久しぶりに甲斐善光寺に寄りました。前回はまったく人がいなかったのに対して今回は正月ということもありたくさんの参拝客が訪れていました。金堂の入口のところで加藤光泰の墓の場所を教えてもらって見学の後、金堂の中の「お戒檀廻り」もしましたが、一度目は鍵に触れることができず、二度目にやっとのことで触れることができました。
本尊に関する話も念のためもう一度確認しましたが、前回のお話と同様でした。要するに現在7年に1度御開帳の際に見ることができる本尊は昔は長野善光寺の前立仏だったもので140cmくらいの大きさのものなのだそうです。現在長野善光寺でご開帳の際に拝むことができる前立仏は小さなものですが、昔はこの大きなものだったのですね。
付近には小山田信茂の首塚などの史跡もあるとのことであり、次回また訪れる機会がありそうです。

 


2001年02月18日

ここは私が行った時間が早かったためか観光客は私1人だったのでおばちゃんがつきっきりで案内してくれました。
定額山浄智院善光寺という山号は長野の善光寺と同じである。信玄は謙信との間で川中島合戦が行なわれるようになると長野の善光寺が焼失してしまうのを恐れて永禄元年(1558)に、御本尊善光寺如来像(秘仏)や諸仏、寺宝、大梵鐘などを甲斐に移転し、今の善光寺を建立した。
この日に説明してくれた方の話では、武田家滅亡により御本尊はその後信長によって岐阜に移されるが、信長は本能寺の変で明智光秀に討たれ、織田信雄により尾張に移されるが、家康によってもとの長野善光寺に戻された。しかし地震後の方広寺再建の時に秀吉の懇願によって長野善光寺の御本尊が再び移されることになったが、その後秀吉の体調が悪化したため三度長野善光寺に戻されることになったが、長野に戻って来た翌日に秀吉が死んだという。
現在甲斐善光寺のご本尊は長野善光寺の前立仏が安置されているが7年に一度の御開帳のときしか見ることはできない。要するに長野善光寺の御本尊はそのまま長野に戻ったが、前立仏は甲斐善光寺の御本尊となったのである。
長野善光寺の前立仏であった、甲斐善光寺の現在の御本尊は阿弥陀三尊像は建久6年(1195)に尾張の僧である定尊が造ったものです。

信玄が建立した甲斐善光寺は江戸時代(1754)に門前の農家の家事によって焼失してしまい、金堂と山門が1796年に再建されました。これが現在の甲斐善光寺で、金堂は日本でも十指に入る巨大な木造建築物である。ちなみに長野善光寺は日本で三番目の大きさであるが、建物の高さでは甲斐善光寺の方が5mほど高いそうである。
金堂の天井には巨大な龍が二頭描かれており、廊下の部分だけが吊り天井となっていて手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こります。一番共鳴が起こりやすい場所は足を置くしるしがあるのでここでやると効果的だそうです。また金堂の下には「心」の字をかたどる「お戒檀廻り」があり鍵を触れることによって75日間長生きできるそうです。(説明してくれたおばちゃんは毎日数十回触っているので私は不死身!と言ってました。)

また宝物館には、日本最古の源頼朝像、源実朝像、熊谷次郎直実像などをはじめ貴重な資料が保存されています。ここでもおばちゃんにお世話になりました。

山門

金堂



1984年03月29日


善光寺

 

 
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