第15回 「記憶の水底より」2001.03.28

 私は幼少の頃から「本の虫」だったようです。親戚の家に遊びにいっては、真っ先に従姉の本棚へ進み、活字をむさぼるように読んでいたとか、幼稚園の図書館にある絵本では飽き足らず、近所の図書館へ沈没しに行ったとか、さらに車での移動中、本を読めないので(車酔いするから)飽きたのか、目に止まった看板の文字を全て音読しまくるので親が閉口したとか、そんな話がたくさんあります。当の本人はちっとも覚えていないのですが。(5つ年上の兄が購読していた「学習と科学」を、兄が帰宅する前に開けて読んで怒られたことは覚えている)
 もちろん図書館は大のお気に入りスペース。一時期は司書をめざそうかと思ったこともありましたっけ。実現しませんでしたけどね。

 さてそんなヒロヒコの読書遍歴のなかには、「お気に入りだったのに、タイトルが思い出せなくて困っちゃう」本がたくさんあります。(読んだことすら忘れているのも大量にありますが)
 そのうちのひとつが、昨日になってタイトルも著者名もはっきり判明したのです。ああ嬉しい嬉しい嬉しいぃ〜〜〜!
 その本とは、「モモちゃんとあかね」という児童書で、動物文学の雄、椋鳩十氏が書いたものでした。

 内容は、「あかね」という女の子の住む家にいる、「モモちゃん」という猫の生涯をつづったものでした。
 本のラストで、もう老いてほとんど歩けなくなった「モモちゃん」が、いまわの際に「あかね」をさがして歩き、最後に「あかね」の腕に抱かれ、息絶える……そんな物語を読んだのは、小学校一、二年生くらいの頃だったでしょうか。

 そして5年ほど前、その本のことがふいに思い出されたのです。
 「もう一度読みたい」という思いはつのるけれど、書名はうろ覚え、著者名もわかるはずもなく、検索にもひっかからずじまいで、途方にくれていたのでした。

 本の内容のうち、わずかながら覚えていたのは、さきほどの老いた「モモちゃん」が「あかね」を探して歩き回る情景と、いまわの際に、「モモちゃん」が「あかね」の小指に力一杯噛みつくところでした。
 「モモちゃん」の噛みついたところから、血がぷつぷつと玉になって出てきて、「あかね」は冷たくなってゆくモモちゃんを抱いて、涙をこぼす……
 幼い心に、その情景はよほど強くきざみこまれたのでしょう。もう20年ちかくその本を読んでいないというのに、そのシーンだけはずっと覚えていたのです。

 インターネットの掲示板にて「こんな話を知りませんか」と呼び掛けたのですが、出てくるのは「松谷みよ子さんの『モモちゃんとアカネちゃん』ではないでしょうか」という回答ばかり……。
 もちろん、それは全くの別物。回答を寄せてくださったみなさんにお礼のレスをつけながら、「やはり、捜し出すのは無理なのか……」という思いがつのりました。

 それからというもの、本屋にいっては児童書の棚を探し、「きっともう絶版だから、みつからないんだ」と肩を落としていた日々が続いていたところに、ようやく決着がついたのです。

 当時の版はもちろん絶版となっており、私が手に入れる手段といったら、古書店をさがすか、椋鳩十全集を手に入れるか、地方の書店にひっそりと眠っている在庫にめぐりあうか、という方法しかおそらくは残されていないでしょう。
 でもいいのです。書名と著者名さえ判れば、図書館で検索できるのですから。たとえ手元に置けなくても、図書館に置いてさえあれば……!

 しかしこれも運命の奇禍というべきでしょうか。
 椋鳩十全集が刊行されはじめたのはたしか高校生の頃でした。中学校の図書館で椋鳩十の本を何冊か読み、ファンになっていた私は、新聞広告欄を見ては単価の高さにひとり煩悶していたのです。
 アルバイト禁止の学校ゆえ、小遣い以上の買い物はできません。(小遣いの大半は食費と画材に消えた)かといってその全集は高校の図書館に入ってくることもなく、部活動に追われていた私はいつしかその事を忘れ、そのままここまで来てしまったのです。

 あのとき、あの本が手に入っていたら、ここまで悩むことはなかったかもしれません。しかし、ようやくなつかしい記憶のありかにめぐりあえたという感慨をうけることもなかったかもしれません。

 これからは、「モモちゃんとあかね」を読める図書館を捜す旅がはじまりそうです。それとも、手っ取り早く国立国会図書館へ行った方が早いのかなぁ?

今回の参考リンク

喬木村ホームページ椋鳩十の世界
長野県にある喬木村で、椋鳩十は生まれました。
その業績を記念し、この地に記念館が設けられています。

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