伊達成実(だてしげざね)1568〜1646
仙台藩一門。通称「藤五郎(とうごろう)」。父親は政宗の曾祖父植宗の息子伊達実元(さねもと)。伊達軍団随一の猛将で数々の軍功をあげる。関白秀吉の小田原参陣の要請に対し、「秀吉と一戦交えるしかない」と、あくまでも秀吉と戦う姿勢をとったといわれ、主戦論者の性格をよく物語っている。
政宗より1つ年下であり、政宗にとっては家臣というよりも兄弟のような存在であった。そのような成実はときに政宗に対し反抗的な態度をとることもあった。有名なエピソードとしては文録4年(1595)に政宗との確執により高野山へ出奔していたことがある。確かな理由は定かではないが一説によると成実の軍功に対する政宗の評価が思いのほか低かったことによるものといわれている。出奔していた時期の成実は徳川家康の家臣に、または上杉景勝に5万石の待遇で招かれたこともあった。(成実はどちらの話も断わっている。)この成実出奔は大変不幸な結果をまねくことになる。未だ一家の当主としては若い政宗はその若さからくる短絡さで成実に対する怒りを成実の治めていた角田城へぶつけた。伊達家が伊達家を攻めることになり、なんと成実の妻と子供を自害させてしまうこととなった。出奔してからおよそ5年後に片倉景綱、留守政景等の説得により成実は伊達家に帰参をするが、その成実に政宗は一生後ろめたさを背負うこととなる。しかしさすがは伊達家の猛将といわれる成実である。妻子を失ったのは自分の責任であると悟り、帰参後は政宗に対しさらなる忠誠心を持つことで、政宗もまた成実に対する厚い信頼感をもって応え、今まで以上に主従関係を固くすることとなった。
兜の前立は毛虫をかたどったもので「けっして後退りをしない」という成実の性格を象徴している。
政宗よりおよそ10年長生きをし、晩年は太平の世となった将軍家光の時代において、合戦経験のない武士達へ幕府から「戦話(いくさばなし)」の講師に要請されることもあった。そのとき外様大名の家臣という身分でありながら、籠に乗って江戸城を訪れるという破格の待遇を得ていた。
猛将という印象の強い成実であるが、文筆家としても才能を持ち、世にいう「成実記」はありし日の政宗及び伊達家の状況をよく著しており、現代でも貴重な仙台藩関係の基本資料となっている。享年79歳。
片倉景綱(かたくらかげつな)1557〜1615
通称「小十郎(こじゅうろう)」。後世において上杉家の名軍師「直江兼続」とともに天下の二大陪審といわれる。大名家の一家臣でありながら大名クラスの領地(景綱は1万6千石)を持つ身分であった。父親は米沢八幡の神職で、似たような家系の背景をもつ輝宗の重臣「遠藤基信(えんどうもとのぶ)」(基信は修験者の息子)から推挙されて梵天丸の守役(もりやく)となる。
政宗にとって景綱は信頼の厚い家臣である以前によき兄のような存在であったと思われる。梵天丸時代の政宗の器量をいちはやく見抜いたのは景綱であり、政宗より10才年上であることが常に政宗をリードする立場となっていた。梵天丸時代の逸話として有名なものにつぎのような話がある。疱瘡を患った後、梵天丸の右眼は飛び出したような状態になっていた。梵天丸はそのような醜い顔を常に気にしていた。景綱は他の者がけっして触れようとしない梵天丸の右目のことに対し「そのように飛び出した状態では敵の手につかまれたら大変です」とずばりと言った。他の者は景綱は梵天丸に斬られると思った。しかし伊達家嫡男の意識を持ちはじめた梵天丸は景綱にこう言った、「ならばこの右目を切ってくれ、そうすればつかまれる心配はなくなる」と。景綱は小刀を手にとり、一瞬に切り取ったという。梵天丸と景綱のすばらしい主従関係である。
景綱には姉(一説には母)の於喜多(おきた)がおり、彼女も梵天丸の乳母として梵天丸の成長に多大な影響を与えた。ゆえに伊達政宗という人間の基本型はこの片倉姉弟によって造られたといってもよい。
政宗が家督を譲られてからはじめての大合戦「人取橋の役」では劣勢にたたされていた政宗を救うべく、景綱は「わたしが伊達政宗だ」と名乗り、敵軍を自分のところへ一斉に呼び込ませることによって、政宗を救ったという。その他にも数々の功績をあげ、後に白石城主として1万6千石の領地を与えられる。この白石は会津との国境に接しており、政宗にとっては仙台藩の南の要害として非常に重要な土地であり、そのことからも政宗の景綱に対する期待と信頼が伺える。秀吉の小田原参陣要請を聞き入れるよう政宗に申し出たのが景綱であった。もしも政宗が景綱の申し出を聞き入れなかったら現在の「独眼竜 政宗」という戦国のヒーローは存在しなかっただろう。そのような「智将」片倉景綱を秀吉は5万石の大名として、徳川は江戸に屋敷を与えようと言ってきたが、どちらも固く断わった。「伊達家に奉公することは、すなわち天下に奉公すること」と政宗への絶対なる忠誠心をつらぬいた。享年59歳
●政宗の重臣に鬼庭(後に茂庭)綱元がいるが彼は景綱の姉於喜多の異母弟である。この景綱・於喜多・綱元の関係は別途綱元の構で説明。●息子の小十郎重綱は「大坂夏の陣」において敵将「後藤基次」を討ち取り、家康から「鬼の小十郎」と異称され、天下に「伊達に片倉あり」を轟かせた。ちなみに重綱の正室はかの有名な「真田幸村」の娘「お梅」であり、政宗と幸村とういう役者の繋がりにロマンを感じる。
茂庭綱元(もにわつなもと)1549〜1640
政宗よりも18年早く生まれ、政宗よりも4年長生きをした。実に政宗の生涯がすっぽり綱元の生涯に収まってしまうことになる。家臣の中で成実、景綱の存在が常に目立っているが、それはつまりこの二人は合戦の場においての実績が明確であり、且つドラマチックであったためである。ではこの綱元はどのような働きをしていたのか。綱元も当然戦国期においては軍功を数多くあげている。しかしそれよりも世の中が徳川幕府が治める太平期になり、政宗が近世大名、いわゆる政治家として脱皮をはかる時代において、対幕府の折衝または伊達藩の運営という役割を政宗の代理という立場でおこなうという重要な働きをしたことが綱元の全てである。後世において成実、景綱、綱元を「伊達の三傑」という。父親は「鬼庭左月良直」(おにわさげつわよしなお)といい、「人取り橋の合戦」において政宗を襲う敵軍の猛攻を阻止するべく、73才という老体ながら先頭に立って防戦をし、壮絶な討死を遂げた伊達家の重臣である。良直は老体の身であることを理由に甲冑を身に付けず戦ったという。
鬼庭家は伊達家初代朝宗の代からの家臣で15代晴宗のときに一族に列せられている。
綱元と片倉景綱は於喜多にとってはどちらも弟である。於喜多は綱元の父良直と正室の娘である。男子に恵まれない鬼庭家であったが正室ではなく側室との間に男子が生まれた。この男子が綱元である。正室は良直から離縁され、その後娘の於喜多を連れて片倉家に嫁ぐことになった。すると皮肉にもまもなく片倉家では男子が生まれた。この男子が景綱である。よって片倉家、とくに景綱と鬼庭家との間には多少の確執があったと思われる。
綱元も成実のようにある時期伊達家から離れていたことがあった。理由は秀吉から器量を買われた綱元が秀吉より屋敷を与えてもらう話があった。しかし綱元はその話を断わるとそのかわりに「香の前」とい秀吉のお気に入りの側室を賜わった。(一説では秀吉との賭け囲碁で綱元が勝ったその褒美ともいわれている。)政宗としては綱元が秀吉に接近し秀吉の家臣に招かれるという噂と、しかも美しい秀吉の側室までいただいたという理由から綱元へ不信感と嫉妬感をいだくようになったという。その結果政宗は綱元へ隠居するよう命じる。しかも知行は100石以内である。このような状況のもと、綱元は香の前を連れて伊達家を一時離れることになる。政宗に赦されて帰参した綱元は香の前を政宗に献上してまるくおさまるが、要は政宗は香の前に惚れてしまっていたのであり、すべては政宗の我がままによるものと思われる。
姓が「鬼庭」から「茂庭」になったのは秀吉による朝鮮出兵(世に言う「文録の役・慶長の役」)の為の上京時のことで、秀吉が綱元の器量を認め、家臣に招きたい意向から綱元へ与えたものである。太閤から直接姓を賜わることは名前と違い異例のことであり(姓は子々孫々伝えられるものである)、「鬼」が「庭」にいるよりも「お家の繁栄」を願ったほうがよいだろうとのことからといわれている。
綱元は政宗が没した4年後にこの世を去るが、なんと政宗と同じ日に亡くなっている。政宗がこの世に生まれてから死ぬまで全てを見とどけ、さらに同じ日に亡くなるとは、綱元こそ伊達家ナンバーワンの忠義な家臣であろう。享年92歳。
留守政景(るすまさかげ)1549〜1607
政宗の父輝宗の実弟である。留守家は伊沢家景(いさわいえかげ)が鎌倉時代に陸奥の民政・財政を担当する留守職に任命されたときに姓を「留守」に改めた。鎌倉以来の名門留守家も室町幕府時代には衰退が著しく、伊達家から嗣子(政景)を当主に迎え伊達家の傘下にはいることによって留守家存続を保った。政景は輝宗の要請により若い政宗の後見人として伊達軍団に加わっている。伊達家親族として絶対的な忠誠心から伊達軍団の中心戦力として数々の合戦で活躍をする。関ヶ原の合戦時において、上杉軍に攻め込まれていた最上領(政宗の母の故郷)を救うべく援軍として参戦し、直江兼続軍と激戦の末最上領を守った。慶長9年(1604)一ノ関に約2万石を治める領主となる。嫡男の宗利のときに伊達姓を名乗る。享年59歳。
石川照光(昭光)(いしかわあきみつ)1550〜1622
政宗の祖父晴宗の第4子。石川家は源頼親(みなもとのよりちか)の末裔である物津有光(ものつありみつ)を祖とし、石川郡を本拠とし、仙道七郡(現代の福島県中通り)を治め、「石川冠者(いしかわかんじゃ)といわれた。本来は伊達家と敵対する関係にあった。人取り橋の合戦においては蘆名、佐竹と結び伊達家と戦っている。天正17年(1589)政宗の幕下に加わり、翌18年秀吉の「奥州仕置き」で所領を没収される。慶長3年(1598)伊達家一門の筆頭となり政宗のよき相談役となり、慶長5年(1600)家康の上杉景勝討伐の令による白石攻めにおいて片倉景綱と共に白石城をおとすための責任者となる。享年73歳。
泉田重光(いずみだしげみつ)1529〜1596
伊達家重臣。父の景時の代に政宗の祖父晴宗に仕える。景時の長男光時は天正10年(1582)の相馬との戦いで戦死。そのため次男の重光が家督を継ぐ。天正16年(1588)の大崎の役では留守政景と共に伊達軍団5000人の総帥として出陣したが、大敗を喫し、味方の帰還を無事におこなうため最上家に人質となる。同年7月に和議が成立し、伊達領の窪田城へ帰還。その後数々の合戦に参陣し、文録の役(朝鮮出兵)にも従軍する。享年68歳
白石宗実(しろいしむねざね)1553〜1599
伊達家一門。輝宗・政宗に仕えた重臣。刈田経元(かつたつねもと)を祖とし、経元は寛治年間に源義家に従い、白石城を居とする。初代伊朝宗の代に姓を白石と改める。宗実は天正14年(1586)の政宗の代に塩松(しおのまつ)城に居城する。天正17年(1589)の「摺上原の合戦」において伊達成実と共に伊達軍団の主戦力となり、軍功をあげる。その後1万5千石の大守となり、胆沢(いさわ)郡水沢城を居城とする。享年47歳。
原田宗時(はらだむねとき)1565〜1593
後藤信康(ごとうのぶやす)1556〜1614
原田宗時、通称「左馬之助(さまのすけ)」原田家は初代伊達朝宗の代より仕える。後藤信康、通称「孫兵衛(まごべい)」信康は湯目重信(ゆのめしげのぶ)の子であるが、政宗の代に後藤家の嗣子として後藤家に入る。
原田宗時と後藤信康といえば史実で有名な秀吉の朝鮮出兵における出陣式である。伊達軍団は第一陣前田軍、第二陣徳川軍に続く第三陣で登場。その伊達軍団のいでたちは京の人々より「さすがは伊達者」と言われるほどの派手さであった。その中でも原田宗時と後藤信康の二人は特に目立ち、長さ1間半(約2.7メートル)もの大太刀を金の鎖で肩から下げ、地面にとどきそうであったという。宗時は若干18歳から軍事を指揮し、しばしば軍功をあげ、信康は勇猛果敢で智略に富み、軍奉行を務める。この二人はライバル関係にあり、とくに若い宗時の信康に対する対抗心には強いものがあった。二人のエピソードに次のようなものがある。
信康の戦場での活躍をかねてから快く思ってなかった宗時はある日信康に決闘を申し入れた。信康は宗時にこう言った。「あなたが言うことはもっともです。よって決闘を受け入れてもかまいません。しかしこのような私的な理由であなたのような勇士が命を失うことはお国(伊達家)にとって大変な損失となります。もちろん私もこのような形で命を失いたくありません。どうですか、お互いお国のためにに忠戦して死ぬことこそ大事だとおもいませんか。」9歳年上の信康からこう言われた宗時は自分の未熟さを恥じ、これ以降親交を厚くする。朝鮮出兵において信康は相馬を牽制するため国にとどまるが、宗時は政宗に従軍する。宗時にとってこの出兵は不幸な結果をまねくこととなる。朝鮮からの帰国途上、釜山(ぷさん)において病に倒れ、対馬に帰航のおり29歳の若さでこの世を去った。政宗は信頼厚く歳の近い兄弟のような宗時の死を悼み、6種の歌を詠じた。信康は朝鮮出兵の出陣式で用いた宗時の大太刀を政宗に願い譲り受け、家宝にしたといわれている。宗時、享年29歳。信康、享年59歳。
尚、原田家は宗時の孫である原田甲斐宗輔(むねすけ)の代において、寛文11年(1671)に世に言う「伊達騒動」によりお家断絶となる。
屋代景頼(やしろかげより)1651〜1608?
通称「勘解由兵衛(かげゆひょうえ)」。屋代家は13代尚宗以来の世臣。景頼は14歳で家督を継ぐ。天正18年(1590)に5000石を賜わり翌年国老に昇進となる。数々の軍功をあげ、朝鮮出兵時には岩出山城の留守居となる。このとき国政を執っていたが、その内容はけっしてよいものではなかった。成実の出奔の時、景頼は政宗より成実討伐を命ぜられ、角田城を攻めることとなり、成実の妻子、家臣団を討ちとった。関ヶ原各戦時、最上の援軍として留守政景と共に上杉軍と戦い、軍功をあげる。数々の軍功をあげた景頼であったが慶長12年(1607)罪を得て改易となり近江国へ流され、その地で没する。没年は不明。
亘理元宗(わたりもとむね)1530〜1594
亘理重宗(わたりしげむね)1552〜1620
亘理宗隆には子がなく、政宗の曾祖父植宗の子である綱宗が養子となり、亘理家を継ぐ。しかし綱宗は17歳で戦死し、その後弟である元宗が養子となった。伊達の親族となった亘理家は輝宗、政宗の代において相馬氏と戦い軍功をあげる。天正19年(1591)伊達の居城が米沢から岩出山に移ると亘理家も遠田郡涌谷(わくや)に8000石の封を得て移り、涌谷亘理家の祖となり、伊達家一門となる。元宗の子重宗は天正17年(1589)相馬氏と戦い、駒ヶ峰、新地城を攻略し大功をあげる。文録の役にも従軍をする。元宗、享年65歳、重宗、享年69歳。
津田景康(つだかげやす)1564〜1638
天正13年(1585)「人取り橋合戦」、天正17年(1589)「摺上原合戦」に功があり、天正19年(1591)には佐沼の役にも功をあげ、佐沼城を賜わる。文録の役にも従軍をする。もとは姓を湯目(ゆのめ)と称していたが、関白秀次の変の際に秀吉に謁し、政宗の謀反ないことを訴え秀吉の疑念を解いた。政宗はその忠誠を賞し2500石の地を与え、さらに津田の原という地で秀吉の疑念を解いたところから、姓を「湯目」から「津田」と改め名乗らせた。その後景康は「白石攻め」、「最上の役」、「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」にも活躍をする。享年75歳。
鈴木元信(すずきもとのぶ)1555〜1620
仙台藩の大蔵大臣。もとは京で茶儀を学んだ茶人であり、政宗には茶道の講師として召し抱えられた。のちに国老となり、1500石を領し、古川城を居城とした。元信は武勇もあったが、それよりも経営に長じており、伊達藩の財政がよく成り立っていたのも元信の功績が大きい。元信は家康のなき後の天下人は政宗をおいて他にいないと心から信じていた。その証拠に「天下人政宗」の日が来ることを想定して既に今でいう日本国を治めるための「憲法」や「法律」等を政宗のために用意していた。しかしそれらが書かれた文書も政宗が天下を取れぬことが明白となったとき、泣く泣く燃やしてしまったという。元信が臨終のときのことである。(見かたを変えれば徳川政権下においてそのような文書がいつまでも伊達藩にあることが発覚すれば、いらぬ疑いをかけられなくもないと判断したとも考えられる。)
また元信らしいエピソードとしては、仙台城の大広間において城の完成を祝って大騒ぎをしている政宗を見て「天下をとることに比べれば、たかだか新城の築上ぐらいでこんなにも大喜びしているとは、誠に情けない」と政宗をしり目に涙したという。それほど政宗に惚れ込んでいた。しかし政宗もわかっていながらあえて家臣達のことを想い派手に祝ったものと思われる。鈴木家は元信の嫡子伝蔵が元信よりも先に没したため、次男の七右衛門が嗣ぐことになる。享年66歳。
桑折宗長(こおりむねなが)1532〜1601
桑折家は伊達家4代政依の支流である。伊達郡桑折を領したときに「桑折」と名乗る。宗長の父貞長は15代晴宗の時代「奥州守護代」に任ぜられた名門である。貞長の後を嗣ぐ者は14代植宗の子「四郎」に決まっていたが、早世してしまったため貞長の実子の宗長が嗣ぐこととなった。貞長は天正16年(1588)蘆名、佐竹との合戦である「郡山の役」に出陣し、軍奉行に加えられる。天正17年(1589)の「摺上原合戦」では息子の政長とともに出陣し、功があった。享年70歳。
山岡重長(やまおかしげなが)1544〜1626
輝宗の代より伊達家に仕える。天正16年(1588)の「大崎の役」では軍目付となり、「葛西大崎一揆討伐」にも戦功があった。重長の妻は異国人である。朝鮮出兵のおり釜山に対陣していた伊達軍へ敵の若武者が一騎突いてきた。重長がその若武者を捕えてみると男ではなく女であった。重長はその女武者を仙台に連れて帰り妻とした。文録3年(1594)重長は政宗の供をして秀吉に謁見した。その際、秀吉の命により山岡志摩と改名。のちに奉行職となり3000石を領する。「大坂夏の陣」では敵将の首級得て功をえた。亨年83歳。
国分盛重(こくぶんもりしげ)1553〜1615
15代晴宗の十男で政宗の叔父にあたり、純粋な伊達家の親族である。国分氏は仙台東北部の国分荘を領した中世の大名である。盛重が入嗣してから伊達氏に帰属をする。「人取り橋の合戦」では自ら300人をひきいて功をあげ、蒲生氏郷の政宗に対する疑念を解くため蒲生方の人質にもなった。政宗は盛重を信頼しきっていなかったらしく、岩出山城へ来るよう命じた政宗へ盛重は病であることを理由に断わると盛重に謀反有りと政宗は判断し、盛重の殺害を企てた。その噂を聞いた盛重は伊達家を出奔し、佐竹氏を頼る。以来佐竹氏に身を置くこととなり、佐竹氏が秋田へ移封されたときもそれに従った。亨年63歳。
猪苗代盛国(いなわしろもりくに)生没年不詳
もとは会津の蘆名の家臣。政宗が「摺上原の合戦」で勝利を得ることとなった重要人物である。猪苗代家は代々会津の猪苗代に根ずいており会津周辺の地理に詳しく、またその他周辺の情報をよく知っていた。政宗は猪苗代氏を味方に付けるよう成実に数度盛国のもとへ遣わした。盛国は政宗に付くことを了承したが、息子の盛胤(もりたね)は大反対し、猪苗代父子は伊達、蘆名と別れることとなった。「摺上原の合戦」において伊達軍の猛攻に退くはめになった蘆名軍を盛国は後方から攻め入った。盛国の駄目押し的な攻撃は蘆名軍の戦意を喪失させることとなり、鎌倉以来続いた奥州の名家蘆名氏は滅びた。
大内定綱(おおうちさだつな)1546〜1610
この人物ほど政宗にとっては重要な人物は他にいないだろう。なぜなら伊達政宗を戦国武将として事実上デビューさせた張本人だからである。出会いは政宗の家督相続の祝いの席であった。伊達家17代政宗を祝うべく近隣の諸豪族が米沢城に招かれた。そのなかに定綱もおり、定綱はこれを機会に蘆名氏から伊達氏へ移り、奉公したい旨を申し上げた。願わくば米沢に屋敷を賜わり、一家を連れて住みたいともいう。政宗がそのことを了承すると定綱は一旦国に帰る。しかしそれ以来定綱からはなにも音沙汰がなくなった。輝宗は政宗のためと思い定綱のもとへ何度も使いの者を出したが、その度に断わられ、挙句の果てには「政宗には器量がない」と言い出された。政宗は最初から定綱を信用していなかったようで、ある程度は定綱の言葉を無視していたが、ついに定綱へ兵をあげることとなった。しかし政宗も若さゆえの短絡さで、「定綱へは蘆名の力が及んでいる。よって敵は定綱ではなく蘆名だ。」といきなり奥州の実力者である蘆名へ戦いを挑んだ。が、結局伊達軍は敗戦という結果に終わった。
しかし政宗も若いながらしたたかさをもっていた。すぐに照準を定綱へ移し、政宗は大内領へ攻め込んだ。そのときの戦の方法がすさまじかった。大内氏は小浜城を居城としていたが、その支城である小手森城へ攻め込むと、なんと信長の比叡山の焼討ちのように政宗は敵の武将はもちろん、女性、子供、果ては家畜に至るまで情け容赦なく皆殺しをおこなった。それまでの奥州の合戦では勝敗がつく前にどこかの家が仲に入り、和睦させることである種うやむやな状態になることが半ば常識となっていた。しかし政宗ははっきりしすぎるほどの結果を「皆殺し」という方法で出したのである。これには近隣の諸豪族は恐れをなし、つぎつぎと伊達家に降伏を願い出てきた。定綱ももちろん政宗から.逃げ回ることとなり、懇意にしている「畠山氏」を頼る。実はこれがきっかけで畠山氏の輝宗拉致事件へと発展することになる。結局伊達氏の隆盛を悟り、片倉景綱を通じて天正16年(1588)(一説には天正15年)伊達氏に罪を謝して家臣となった。以来定綱は伊達氏の重臣に負けぬ功績を数々あげる。
摺上原の合戦においては相手が蘆名氏という元の主君にもかかわらず、作戦を申しで、自らも中軍左翼隊の将として活躍をする。文録の役、白石攻めにも従軍をする。伊達軍における定綱の活躍をみると、当初一度は伊達氏につくと言いながら結局こなかったのは、定綱には充分その気持ちがあっても蘆名氏の圧力にはどうにもならなかったと思えてしまう。亨年65歳。
遠藤宗信(えんどうむねのぶ)1572〜1593
政宗に対する景綱と同じ存在であった輝宗の近臣「遠藤基信」の世子。17歳で遠藤家を継ぎ、政宗に仕えて宿老となる。佐竹・蘆名連合軍来攻のときは伊達領の砦を死守し、佐竹・岩城軍が政宗の正室「愛姫」の郷である田村領に攻め入ると田村城を守った。文録の役にも従軍し、大功をあげた。故あって一時紀州名古屋において出奔するがまもなく伊達氏に帰参する。病により22歳の若さでこの世を去った。
小梁川盛宗(こやながわもりむね)1523〜1595
11代伊達持宗の三男である盛宗(同名)の子孫。代々伊達郡小梁川村に住み小梁川を姓とした。父の親宗は輝宗・政宗両主君に仕え、常に軍議に加わった。有名な小手森城攻めをはじめ、人取り橋の合戦では高倉城を、相馬軍の攻撃からは三春城を守り、さらに駒ヶ峰及びその他新地の敵城を攻略するなど数々の軍功をあげる。亨年73歳。
支倉常長(はせくらつねなが)1571〜1622
通称「六右衛門(ろくえもん)」、日本史においては主君の政宗よりも有名である。単なる親善の目的ではなく、交易等のためにヨーロッパへ渡ったのは支倉常長が率いる使節団がはじめてであった。世に言う「慶長遣欧使節団」である。慶長18年(1613)「サン・ファン・バウティスタ号」という大船で牡鹿郡月ノ浦(宮城県石巻市)より出航、メキシコ、キューバを経てスペインに上陸した。この使節団の真の目的は今だ解明されていない。その理由は使節団の送り主が「伊達政宗」という権謀術数に富んだ武将だからである。一般的には政宗は単なる表の責任者で実際は徳川幕府の使節団で交易を目的としたものであるという。しかし一方では政宗は仙台藩独自の交易および軍事要請のためのものであったともいう。どちらにしろ常長にとっては帰国後不幸な人生を歩むこととなった。
常長はローマ法皇より洗礼を受け、ローマ市民権を与えられ貴族に列せられた。しかし使節団としての目的は達せられず、8年の歳月を経て帰国をする。しかし帰国した日本はキリシタンに対する状況が変わっており、徳川幕府によるキリシタン弾圧がおこなわれていた。政宗も幕府の決定には逆らえず、藩内においてキリシタン狩りをおこなっていた。
帰国した常長は派手な迎えを受けることなく、人前から忽然と姿を消した。一説によると政宗が綱元に常長の保護を頼んだといわれる。52歳で没するが、その墓は特定されていない。