<法隆寺を訪れて>                               

 法隆寺には、冬晴れの突き抜けるように真っ青な空がよく似合います。久しぶりに訪れることが出来て素直に嬉しく思いました。
 身の引き締まるような、朝の凛とした大気。壮大で端正な伽藍の佇まい。己の存在の小ささをこれほど潔く心地よく受け入れさせてくれるところは私にとって他にはありません。
 今回は、生徒3人にOB1人という少数精鋭部隊(!)であったことと、熱心なガイドの方がついてくださったことで、中身の濃い、充実したひとときを過ごすことが出来ました。 伽藍に占めるストゥーパ(塔)の位置の推移、中門廻廊にあるエンタシスの柱とその上部の梁との組み立て方に見る時代の違いなどは、今まで見過ごし て
いたり、不勉強のためぼんやりと分かっているつもりでも明確には理解していなかった事柄で、大変意義深くガイドの方のお話を聞かせてもらいました。

 中門回廊  エンタシス柱

 殊に、恥ずかしい話ですが、今回初めて気づいてまじまじ眺めたものに、金堂の上層の屋根を支えるため後世になってつけられたという、龍の絡みついた柱があります。柱も含めてか、龍だけなのかははっきりしませんが、これは、江戸元禄の大修理(綱吉:1696年)の際の徳川方の多額の寄付の見返りとして、桂昌院がつけさせたものだとか(2008年注:ガイドの方にそう聞いたのですがはっきりしません)。講堂の前に立つ灯籠もまたそうであり、五重塔の相輪の基部には葵の紋も見受けられます。法隆寺と桂昌院、今まで思いもしなかった結びつきに突然、権力の誇示、女の見栄(これはガイドの方の受け売り)といった生々しい現実が見え隠れして、些か鼻白む思いがしました。この伽藍も元はと言えば権力に無関係に造営されたものではないはずですが、歳月のなせる業でしょうか、桂昌院の残したものは、400年も前のことながら、1000年以上の静穏な歴史の前では、やけに現実的なものに思われました。

 講堂と灯籠  金堂の龍の柱


 梅原猛の「隠された十字架」を読んだのはもう30年近くも前のこと。もはや忘却の彼方ですが、法隆寺はやはり、聖徳太子一族の凄惨で非情な結末を思い起こさせます。梅原氏ではありませんが、私は、南大門を通 り過ぎ、西大門から東大門に通じる石畳に足を踏み入れるといつも、自ずと背筋が伸び、軽い緊張感を覚えます。 若草伽藍と西院伽藍の位置的時代的関係などの考古学的な興味はあまりないのですが、聖徳太子一族がこの辺りで絶えたというその歴史的事実の重みが私に軽い緊張を強いるのでしょう。絶えるということの無情さ、儚さ。私はそこに惹かれて法隆寺を訪ねているのかもしれません。

 西大門へ   東大門へ

 

 

*****other photos******

 

 南大門   南大門より(朝9時前)                                         

 中門              

 五重塔   夢殿                                            

 外壁の瓦    外壁

              

 中宮時で記念撮影

 

2日目 吉野