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NLA別荘群

 

 野尻湖畔の南西側小さな山の斜面に位置するNLAには 数多くのヴォーリズによる別荘群が存在する。

以前野尻湖ホテルを取材したときに対岸から眺める機会があったのだが 湖に正面から向かう斜面は樹木で覆われ その中に別荘が程良い距離で点在し 自然と調和している別荘地を見ることができた。

本来、日本で別荘地というのは居住地のそばに建てていることが多かったようで 東京の都心近くの高級住宅街は江戸時代別荘地だったところが多い。

たとえば 東京から横浜に向かって東京湾を海沿いに行く品川から大森にかけては 内陸側に土手がありその山側は高級住宅街が連なっている地帯であるが 江戸時代は山手の別荘地で海に面した眺めのいい傾斜地に屋敷が建ち並んでいる。

 

野尻湖と外国人

明治に入ってから富国強兵政策に基づく政府の招きで来日した外国人講師達は 日本の蒸し暑い夏にたいそう参ったようで避暑地探しに没頭したらしい かくしてその一部の講師達が軽井沢という格好の地を見つけることになるのは 明治の中期のことである。 避暑をするという概念は、きっとこの時に生まれたものであろう。 それから日本在住の外国人は続々と軽井沢で夏を過ごすようになり それに伴い日本の皇族や華族達が住むようになっていき 徐々に現在のかたちになっていった。 その中でもカナダ人は自分の国土が森と湖に満たされた土地だったため 軽井沢では飽きたらず他の場所をさがしていた。彼らは自らを水陸両棲人間と言う人もあるくらい水に親しみ 自分のふるさとにより近い風土を求めていた。そんななかで唐松などの針葉樹の森と野尻湖という湖に囲まれた 故郷に似た土地と知り合う事になる。 地元の池田万作氏の力を借り 神山地区にNLA(Nojiri Lake Association)が誕生したのは 大正10年の事である

 

建築学的な解説

規模や様式 構造などはどれも皆同様なものが多い。

様式はコロニアルスタイルを主体としたタイプが基本になっている。以前にも書いたが 本来植民地向けにヨーロッパの様式を模したものがアメリカを経由して若干変化した。建築材料はもちろん木造で 構造は日本の古来からの和小屋と呼ばれる形式に 外壁は下見板といわれる木の板をヨコに少しずつ重ねて張ったもの 屋根は積雪地の為に鉄板 室内は薄い板をタテに張ったものとなっていて 全て地元で手に入る安価な材料ばかりである。

構成としては

安い材料(現実性、経済性を重視した考え方)

簡単な工法(経済性、大雑把)

古典的な様式と華美でない装飾(形式・伝統に縛られない)

前回 ヴォーリズの表現しようとしていたものは「プロテスタント」「フロンティアスピリッツ」と書きましたが それらに加えヴォーリズ自身の事、キリスト教を広める為という目標がありながらその牧師としてではなく 一般的な生活を送りながら進めたという「権威や形式や伝統に捕らわれない」という部分や「現実的」といった点も表現されている。

 

太平洋戦争前後

日本は明治以降、欧米の圧力に屈しない国力を付けるために富国強兵政策を押し進めたのであるが それがある程度実を結び 日露戦争の勝利でアジアの欧米からの植民地政策をくい止めるに至る。

その後も国力を付けていき 朝鮮半島 満州と勢力を広げていくのであるがその時期は世界の流れとは若干ずれていた。日本の国際的立場は悪化の一途をたどっていく。

そんな状態の時昭和16年1月 太平洋戦争が起きる年の初めにヴォーリズは帰化し日本国籍を取得する。

そして 太平洋戦争

当初は今まで通りの生活をしていたらしいが さすがに形勢が不利になるといくら何でもそのままという訳にはいかずスパイ容疑もかけられ 昭和17年秋軽井沢に疎開する事になった。

本国から呼んでいた家族も母以外は全て帰国している。

同じ頃NLAではほとんどの人が帰国し 別荘は敵産管理令とかで政府に没収されている。

当時軽井沢で過ごしたヴォーリズは ピアノを弾けばアメリカに電文を送っているのではないかというように言われるほど 厳しい日々を過ごし失意の日々を送っていた。

ただ その同じ時期昭和17年の10月から彼は東京帝都大学から英語の教師に命ぜられて軽井沢から東京に週に一度教えに出ていたという記録が残っている。

この当時は英語は敵国語ということで 使用禁止になっていたと思うのだが東京大学が別格なのか また彼の待遇もまた別格だったらしく そういう事になっていた。また このことは彼を随分元気づけた。

日本は敗戦を迎える。

戦後の処理で占領軍が当然のように日本の絶対的な存在の天皇を取りつぶそうとしたとき連合軍総司令官マッカーサーと昭和天皇との会談を開く為に奔走し

天皇制存続を強く訴えた。

天皇といえば 戦前は神でありその意味では一神教のキリスト教徒のヴォーリズに取っては 自分の宗教の教えに反する立場の人に他ならない。

ヴォーリズの到達したところ

本来からキリスト教の布教活動として来日したヴォーリズであった。

このことは誤解を恐れずに言えば 彼が信じている自分の宗教を日本で広める つまり心を自分の国の同じ精神にする、勢力圏の中に取り込む事を意味している。

そういった意味では 経済力による制覇や軍事力による征服とはその本質においては大差ない目的だったといえる。欧米が植民地を作るときに最初に送り込んだのは宣教師だったことからもそれはみえてくる。 彼が どんなに崇高な気持ちでキリスト教を布教しようとほとんど命がけで来日していても その時点では確かにそうだった。

日本国籍を取得し 日本で絶対の存在であった天皇の存続に協力した時点で ヴォーリズは宗教や国籍を越えた存在になる事になったのではないだろうか。

キリスト教を広めるために後進国日本にやってきた一介のアメリカ人は その後もキリスト教徒として過ごしていったであろうが 宗教や祖国というしがらみから離脱できたのではないだろうか。

ヴォーリズの書く色紙には 円を書いてその中心に点を書くマークが使われていた。

それは 世界の中で近江八幡はその中心という意味であるが ヴォーリズはその伝道活動の中で 「ヴォーリズ教」とでも言うべき教えを広め 自身もそれだけの精神的次元に到達したのではあるまいか。

ヴォーリズ設計の神田駿河台の主婦の友ビルは 数年前に日本人建築家の磯崎新氏の設計によって 建て直されているが 通りから見える外壁部分はヴォーリズの旧主婦の友ビルの外観が復刻されている。磯崎氏の提案で低層部の外観はヴォーリズのデザインを残そうという事になったと聞く。

最近完成した 明治大学の建物は 以前と同系列のデザインが施されていた。 彼の多くの教え子達や創りだした組織は キリスト教徒として 設計事務所として 病院として 図書館として その後ももちろん全国で活躍している。

ヴォーリズの精神は 今尚継続している。

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