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野尻湖プリンスホテル

 

 野尻湖に西武が経営しているプリンスホテルがあるという事を聞いたのは、この地を知って随分経ってからだった。プリンスホテルというとその地の一等地に高層の建物等で目立つ建て方をしているという印象があるのだが、野尻湖の湖畔には極端に目立つほどの高い建物は見あたらない というのがその理由だった。

● 周辺と第一印象

 野尻湖プリンスホテルは野尻湖の東側の湾状になったところ、湾の入り口を樅ヶ崎と竜宮崎に挟まれ、菅川部落を底とする湾に位置し、その中の小さな半島「松ヶ崎」の尾根沿いに建てられている。国際村や例の観光船の桟橋のある野尻湖のメイン地区とは違い、その周辺は山村という言葉が今でも似合う地区で、時間がゆっくり流れている。

見学のために訪れたのは、通年なら最も雪が厳しいはずの時期だった。周遊道路からを外れて松ヶ崎に向かって進んでいくと、半島部の地形に沿ってホテルが控え目に建っていた。  

建物は緩い傾斜の切り妻屋根が特徴で、エントランス前の車寄せのガラスの屋根が鉄骨製の三角形を連続させたトラス構造の骨格に乗せて大きく張り出しているのが個性的であった。

 

● 設計者

 このホテルの設計者は「清家 清(せいけ きよし)」戦後の日本の建築界を走った代表的建築家の一人である。

「違いのわかる男」

 今から20年くらい前だったと思うが 清家氏は現在も販売されているインスタントコーヒーのCMに出演していた事がある。

 今では全く一般的になってしまったが、そのインスタントコーヒーは当時高級品という位置づけになっていて、各界の一流と言われている人達に一人づつスポットライトを当てて出演させた「違いのわかる男」というシリーズで、他製品との差別化を強調したCM活動であった。

 建築家の出演は、他には黒川紀章氏そして極短期間ではあったが丹下健三氏も出演していた。清家氏にこのCM出演について白羽の矢が立ったという事実が、当時の第一人者としての何よりの証であろう。

「経歴」

1918年(大正 7年)        京都生まれ

1941年(昭和16年-23歳)〜    東京美術学校(東京芸術大学)

1943年(昭和18年-25歳)〜    東京工業大学

1943年(昭和18年-25歳)〜

 〜1945年(昭和20年-27歳)   兵役

1946年(昭和21年-28歳)〜    東京工業大学 助手・講師

1948年(昭和23年-30歳)〜    同 助教授

1962年(昭和37年-44歳)〜    同 教授

1975年(昭和50年-57歳)〜    同 工学部長

1978年(昭和53年-60歳)〜    東京芸術大学教授

1980年(昭和55年-62歳)〜    同 美術学部長

1981年(昭和56年-63歳)     日本建築学会会長

1986年(昭和61年-68歳)     東京芸術大学退官(名誉教授)

1953年には一連の住宅作品を対象に、日本建築学会賞を受賞している。

 

「建築界での清家清の役割」  

1950年代のさまざまな住宅作品で、建築界に多大な影響を及ぼしている。この年代はまだ戦後の復興期であり、建築界では「住宅」という概念が重要なテーマとなっていた時代であった。  

ファシズムや帝国主義への反省から共産主義が新しい考え方になり、経済や思想の単位が 国家から会社へ 一族から核家族へと移行し始め、会社という単位は 経営者と労働組合という単位へと枝分かれし始めた結果 その労働組合が力を持ちはじめ、その中の労働者という新しい階層の為の住処である「住宅」とはどうあるべきかという事が 熱心に議論されていた。  

住宅公団による活動などはそのような考え方の一環であり、規格された同じ製品を作り続ける大量生産という生産方式と同様に 労働者も規格化され団地という家を作ることによって同じ生活を大量生産していった。そのような流れの中で清家氏は、一族の為の「邸宅」ではなく、労働者を含めた核家族の為の「家」という新しい単位の住宅のプロトタイプを創り、発表し始めた最初の建築家の一人であった。

 

「野尻湖プリンスを設計した頃」

 野尻湖プリンスホテルの竣工は1984年、その2年前の1982年に軽井沢プリンスホテルを竣工させている。

 この軽井沢プリンスホテルは、母屋が大きく緩い傾斜の切り妻屋根で客室棟が大きくカーブした建物という野尻湖プリンスととてもよく似たデザインで、同じ思想上に創られている事がわかる。

 プリンスホテルというのは、ご存知の通り西武のホテルチェーンである。元来ホテルの設計というのはリスクを極力避ける傾向にあり、その為ホテルを専門にしている設計事務所に依頼することが多い。大規模で主要なホテルは特にその傾向にある。大都市や有名観光地にあるメジャーなホテルがどこも同じ様な設備や内装なのは、この辺りにその原因がある。

 プリンスホテルは 全国に多数存在するメジャーなホテルチェーンだが、主要なホテルのいくつかを大御所といわれる有名建築家に依頼している。丹下健三氏(赤坂、幕張、大津) 村野籐吾氏(箱根、新高輪、京都宝ヶ池) それに黒川紀章氏(六本木)などが主なところであるが、それらに混じり清家氏も1980年代に軽井沢、野尻湖、水上高原と続けて設計している。

 それまで清家氏は住宅程度の大きさの設計がほとんどで、このホテルの規模の設計は軽井沢プリンスを含めても数えるほどしかなかった。通常、設計する規模が変わるとデザイン手法などが変化するために、それに伴い新しく自分の設計方法を生み出す必要がある。ところが清家氏には、建築家としての一貫した思想が住宅規模には合っていたが、この規模には若干不適合であったようだ。

 この建物が地形や自然に調和させているために目立たないという意味だけでなく、これほどの建築家の作品の割に、なんとなくインパクトが小さいのは、この辺りの事情に負うところが大きい。

 清家氏はこのホテルの設計で、規模の違いを 分棟し一つの建物の規模を小さくすることと 地形に調和させることで解決させる、という方法を選んだ。

 

● プラン

 ホテルは半島の突端に位置し、建物はロビーなどを受け持つ「パブリック棟」と宿泊用の「ルーム棟」とに分れている。

 パブリック棟は半島の尾根部分に位置する。土地の勾配と屋根の勾配の方向を一致させた大きな切妻屋根とし、その妻側をエントランスにして外部からアプローチしてきた顧客を 正面から迎えるようなかたちとなっている。

 ルーム棟はパブリック棟から一段下がったところ、尾根から湖畔に降りる傾斜地に等高線と平行になるようS字カーブを描いた平面に計画され、屋根を低くすることで森に覆われ、木立に隠れるように建てられている。客室の窓を湖側の南東に向けているために湖畔への眺望があり、木陰の中に建てられている客室からは陽光に照らされた水面が見えるように建っている。

 周回道路から建物は直接見ることはできない。また 湖の対岸からもルーム棟は樹木の影になっており、パブリック棟の大屋根が林の中に僅かに見える程度となっている。

ホテルというサービス業の性格から、母屋はある程度大きく目立つように創られてはいるが、建物は低層で屋根は大きく勾配は半島の向きに合わせて緩い傾斜とし、環境に調和する色彩計画としている。また ルーム棟は半島の等高線に沿って建てられ、全ての部屋から湖が眺められるようになっている。通常建設時には、工事しやすいように周辺の樹木を伐採してから建設するものであるが、このホテルは伐採を最小限としたようで建物のすぐ近くに古い樹木が残されている。

 現在は冬季営業も営んでいるがそれはここ数年の事で 竣工時は冬季を除く3シーズンの営業を計画していたらしい。建物の配置や規模、窓の開け方から、エントランスの作り方まで施設の各所が冬季以外のリゾートを考慮して設計されている。

ホテルのエントランスを入るとロビーは大屋根の中央の直下で、その正面には大きな窓が幅高さ共にほぼ一面に開けられ、その窓からは木々の根本から上部の小枝や葉までが見える。工事の際の樹木の伐採を最小限としたことで建物の間近から樹木がある為に、森の中にいることを実感できる設計になっている。春には一斉に芽吹いた新緑の、夏は強い光と深い緑がつくる葉陰の、秋は紅葉の色づきや葉が落ちてゆく様までを、森の内側から鑑賞できる。

 初めて行くホテルで ロビーから部屋に向かう時間は 案内される部屋がどんな部屋なのか期待感を持ちながら歩く時間である。この客室までのルートには 巧みな演出を施している。

 ロビーからすぐに裏にあるエレベーターに乗り ルーム棟へ通じる廊下のある階に到着する。エレベーターロビーには 窓がない。その後 景色の見えない窓のある廊下を右に左に曲がったあと 僅かな下り勾配をつけた窓のない直線の渡り廊下があり 照明を落として落ち着いた雰囲気の中、勾配に任せてゆっくり降りていく。両脇の壁には絵画などが掛けられていて、少し距離のある廊下を歩いている時間も飽きさせないようにしている。下り勾配の為に前方に見えていた廊下の天井が歩くに従って視界の上方に上がっていき、その先へ視界が広けてくると 照明を落とした廊下に慣れた目に正面に開けられたルーム棟の窓から 野尻湖の湖面が陽光に反射した光とともに目に入るようになっている。

 ルーム棟に入ってその廊下を歩いていく。ルーム棟は地平線に沿って円弧を描いた平面になっているため、廊下も緩くカーブしていてその突き当たりである終点が見えない。また廊下の明かりはところどころの窓から廊下に直角に入ってくる為に 歩いていると情景にリズムを発生させている。途中には客室の間に中庭も設けられているところもあり、そこからはまた野尻湖が見えたりと長い廊下を歩く上でのオアシス的な空間になっている。 

念願の客室に到着する。ドアを開けてさあ部屋だと思っても前方には階段がある。客室は傾斜地に1階と2階が一体化したメゾネット方式になっているために、部屋は客室の入り口から見ると数段高いところにあり、その為に階段が設置されている。その階段を数段登るとようやくメインの部屋の到着する。外壁全体に大きな窓が開けられ、ホテルに入ってから大きく湖を眺めることの無かった目に一面に野尻湖が広がっている。  

客室は全て湖に向かって作られている。しかもメゾネット方式の客室が多い。通常のマンションのように片方に廊下を作ると、部屋の窓は一面しか開けられないが、メゾネットにして廊下のない階を作ることにより部屋の両側に窓を作ることができている。そうすると その両面の窓を開ければ部屋の中を風が吹き抜けることになり、夏など涼しい風が欲しいときなどすこぶる過ごしやすることができる。  都心部のホテルのように一年中エアーコンディショニングによって室内の空気をコントロールするだけでなく、土地全体の空気の流れが大きいことを利用し、窓を大きく取ることで豊かな風量の風を部屋に横切らせた方が リゾートホテルとして遙かに目的にあった建て方と言える。  清家氏はこのようなやり方で、この野尻湖の半島という土地を最大限利用した演出をし 自然とを調和させたホテルとした。

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