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信濃町伝道所

 

 この伝道所に案内される前 場所はきっと野尻湖畔なのだと思いこんでいた。

日本では有名な外国人の建築家の名前と、国際村を初めとする野尻湖という土地柄を加味すると 他の場所は考えられなかった。しかし、案内されたところは何度か通ったことのある町役場そばの国道脇を少し入ったところにあり、それは、控えめに建っていた。  

県内のキリスト教の布教は、その中心が善光寺のある仏都長野であるために難航したらいしい。最初に教会ができたのは長野市で、明治30年代のことだが、その後上田に建設されたのが昭和10年前後、そしてこの伝道所の竣工は、昭和31年となっている。

ヴォーリズの紹介  

 この建築の設計者はウィリアム・メレル・ヴォーリズ、建築家としてだけでなく 日本の近代に多大な足跡を残しているアメリカ人である。19世紀の後半 合衆国中央部のカンザス州に生まれ、大学を卒業してすぐ24歳で明治時代の晩期に来日、日本人の女性と結婚し 両親や兄弟一家まで日本に呼び、やがて日本国籍を取得、そのまま日本にて84年の生涯を終えるという日本一筋の人生だった。

 建築家以外の仕事でも 当時流行していた結核の療養所、幼稚園、図書館などを経営していた。その中でももっとも身近なのが

「メンソレータム」

の日本での販売をしていたということだろう。  

日本で35年間に設計した物件は、優に1000を越えている。大まかな内訳は

       教会建築 150棟

       学校建築 300棟

       病院建築  30棟

       商業建築  70棟

       住宅建築 400棟

 となっている。  キリスト教系の建築の設計が圧倒的に多く とても熱心なキリスト教信者でもあったことから「ミッショナリー・アーキテクト」命名されていた。

日本で設計した有名な建物をいくつか上げてみると。

商業建築では、

       東京駿河台の「主婦の友ビル」、

       東京駿河台の「山の上ホテル」、

       大阪   の「大同生命ビル」、

       大阪   の「大丸心斎橋店」・「京都支店」、

       京都   の「東華菜館」。

学校では、

       「関西学院」内29棟、

       「同志社」 内 5棟、

       「青山学院」内 5棟、

       「明治学院」内 3棟、

他にも多数造っており、あの当時建設された日本の名だたるミッションスクールの施設はほとんど彼の設計によるものといっていい。その他日本各所のYMCA会館30棟余りも設計している。

 県内では

長野 の  「長野メソジスト教会」、

上田 の  「梅華幼稚園」、

軽井沢の 「ヴォーリズ合名会社軽井沢コテージ」、

       「ウォーターハウス・コテージ」、

       「軽井沢コテージNo,380」、

       「ヴォーリズ合名会社軽井沢社屋」、

       「軽井沢コテージ」、

       「不二家軽井沢店」、

       「ユニオン教会」、

       「軽井沢集会堂」、

       「療養所」、

       「軽井沢教会」、

       「テニスコート・クラブハウス」

軽井沢はこれ以外にも多数存在し、県内では圧倒的な数に携わっている。  野尻周辺では  今回の「信濃村伝道所」ほか 「野尻集会堂」ほか国際村に多数の別荘を設計している  

 

建築の解説

 竣工時期については諸説存在するが、ヴォーリズ事務所の資料では1956年(昭和31年)となっていて、最晩年の作品になる。

 まず この建設された場所についてであるが、国際村のある野尻湖周辺ではなく、役場のある町の中心地である。また 伝道所という名称を与えられているという事は 「この町の人達の大多数に対して布教する目的に作られた」という事がわかる。  

建築の大まかな構成としては、基本的に長方形な平面の上に切り妻の大屋根が覆っていて その最上部に塔が乗っている。エントランス部分は庇とせずに小さな屋根が架けられていて、外装は素地の下見板張りに白い塗装をした窓が規則的に並んでいる。様式で言うとコロニアルスタイル。ルーツは イギリスやスペイン等が植民地用に本国の様式を模して実用的に変化させたもの それがイギリスやその植民地だったアメリカ経由で入ってきた。妻側(長方形平面の短辺)の上部が真壁(壁の厚さが構造材よりも薄い壁)の為構造が露出していて、それがグリッドに見えるようになっている。ここが様式に対して変化させているところである。  

プランとしては、入り口を直線的に進んでいくと礼拝堂があり、そこに向かって左脇に控え室のような多目的な部屋や炊事場などが並んでいる。エントランスの2階にも部屋があり 最初の頃の牧師はそこで寝泊まりしていたらしい。(現在は隣地に住居あり)  

デザイン上の特徴は正面にあり、切り妻の大屋根と塔、それにエントランスの小屋根、外壁上部のグリッドや窓の入り口の戸などの全体と部分の大きさや寸法の比率など業界用語でいうプロポーションを整えるという手法を施している。特にシンボルとなる塔は つい大きくしてしまいがちであるが 全体のボリュームとバランスがとれている。  

外壁上部のグリッドは、柱割りからのピッチと屋根の母屋からの水平材のピッチが規則正しい。彼の他の作品ではこのようなグリッドは見られない。「グリッド」のもっている意味はいろいろあるのだが 今回の場合、この時代の周辺の建物と比較して大きな規模の木造建築となっている。その目から遠い高さのある部分に2尺(60cm)以下の小さなグリッドを用いることによって 親近感を持たせるねらいがあったのではないかと思われる。  

白く塗装されたエントランス戸や窓は その当時のコロニアルスタイルによくやるやり方で この建物だけの手法ではないのだが 透明なガラスや雨戸の無い窓と相まって解放的である。それは この教会組織と伝道所そのものも外部にたいして開放的であるという事を意味している。  内装は実に質素な造りになっていて、装飾と言えるようなところは祭壇の軽井沢彫りの家具くらいしかない。

 ヴォーリズは常々 建物は外見よりも内容が重要だという事を言っていたそうである。すると、この建物は彼本来の考え方からすると若干異なっている。ただ 筆者の記憶するプロテスタントの教会も皆同じように質素な造りだった。格式や様式にとらわれないプロテスタントの考え方を表現しているといえる。

礼拝堂の天井は 通常その上昇志向を表現して天井を高く作るモノである ここは屋根に勾配がある為天井裏にスペースがあり、工法によっては高天井が可能な状況にありながら低く作られている。見学した当初は、プロテスタント系の教会は低く作るのかとも考えたのだが、他の例を見るとそんな事もない。冬季の寒さを考慮して天井を下げた可能性が高い。

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