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野尻教会堂

 

 夏の盛りが過ぎたばかりの野尻湖は それでも避暑の人達がまだ残っていた。

NLAのプールでは 涼しげに泳いでいる人達で賑わい、近くでは芝生に敷物を敷いてくつろぐ人達の会話や子供達の笑い声に満ちていた。  プールのすぐ前にある教会堂の正面に立ち 古くなって木材の含水率が減り足を乗せると乾いた音がするテラスを上がり エントランスの扉を開けて中に入ると そこには「祈りの空間」があった。  

世界中の何処に行ってもキリスト教の教会やイスラム教のモスクなど 祈りの空間には特別な空気が流れている。日本では 神社の参道や祠などもそういったものの中に入る。建物の外部がいかに都会の喧噪に紛れていても また 田舎の静かな空気が漂って居ようとも 一歩その中に入るとそこには全く別の世界が成り立っている。  

祈りとは 何千回何万回と重なり続けると建物の中に染み込んでいくのだろうか。教会とは そういった独自の空気が漂っている。

建築の解説

 設計者は、前回の信濃村伝道所と同じウィリアム・メレル・ヴォーリズWilliam Merrell Vories。竣工は 昭和初期の1929年(昭和4年)となっている。  

このころのヴォーリズは 結婚して家庭を持ってから10年程経ち、メンソレータムの販売を初め、また「吾家の設計」「吾家の設備」の2冊の書籍を出版してから数年の歳月が流れていた。また その数年の後に自邸も建設している。

つまり ヴォーリズがその人生の中で一番勢いを持っていた頃の作品といえる。

前回の信濃村伝道所が、この地域にキリスト教が普及してきた昭和30年代だったことを考えると 随分早く建設されているが、これはもちろんこの別荘地の協会員専用の教会を創ろうとした為である。  

用途は資料によって異なり「野尻講堂」「野尻集会堂」「野尻教会堂」等となっている。内部を見ると 祭壇は数十センチの高さがあり 袖壁で囲まれていてそこに照明が照らせるようになっていたりしていて 舞台としても使えるように造られている。 また 左右と後方には2階席も設置されている。  

これは「ホール」の作り方である。  

ただ 通常のホールは 観客が舞台に集中しやすいように窓を切らないのが通常であるがセオリーに反して 舞台に向かって左右に横長に窓が切ってある。  

これは 「集会場」としての機能を考えて切ったものであろう。

そして 舞台部分には上部に窓が切られ 信濃町伝道所でも見られた軽井沢彫りの台があり 後ろ側には十字架があり祭壇そのものとなっている。  これは勿論 「教会」のそれである。  つまり ここはそれらの用途全てに使えるように設計してある。 また建設場所は 別荘地と湖の間 湖畔に位置していることからも この教会堂が別荘地の協会員のコミュニティの中心を創ろうとしていることを示している。

 1943年(昭和18年)に積雪で屋根が壊れたという記録が残っている。   この時代の積雪に対する考えかたは 現代のように統計上で一番深い積雪に合わせて頑丈だがお金がかかる設計をするというよりも 積もったら雪下ろしをすればいいという考え方だったようで 昭和18年という太平洋戦争の真っ直中だった事 昭和16年にはほとんどの外国人が本国に引き揚げていたことを考慮すると 雪下ろしをしなかった為の崩壊と考えられる。  

ヴォーリズの建築物は 建設地で入手しやすい材料や技術で作られているものがほとんど 具体的には木造は日本的な技術である和小屋で造られた建物が多い。しかし ここは西洋の木造などで使われるトラスと呼ばれる三角形を多用するとする構造となっている。

トラスは少ない材料で最も大きい強度を生み出す構造様式といわれ 構造強度を出しやすい。建物全体が構造体となっていて全体で強度を出しやすいが 壊れるときには一気に壊れる。  

日本的な和小屋は 梁などに長い部材を使うために大断面となり部材が大きくなる。

その部材強度そのものでもたせる仕組みと 「ほぞ」などの材木を組んで持たせる柔らかい接合部の為「しなやか」で地震や台風時の微少な変形にも対処しやすい また 部分的な構造の集合体の為 改修などをやりやすい柔軟性がある。  

この建物が建設された時期には 材料も和小屋で造る為の大きな梁の入手は困難であったはずで 金銭的な理由もありこの構造方式が選択されたと考えられる。

ヴォーリズの表現しようとしていたこと

 ヴォーリズはカンザス州に生を受けたが幼い頃から病弱で 結核にかかり一時は命さえ危なかった時期もあるという。両親は我が子の健康を第一に考えてアリゾナ州フラッグスタッフに転居し、グランドキャニオンの関門といえる雄大な西部の土地で少年時代を過ごさせた。その後彼が16歳になると 今度は教育に適した文教地域であるコロラド州デンバーに再び転居している。  

この両親から受けた愛情が 彼の人格形成に大きな影響を与えたようだ。  

大学は 建築家を目指しコロラド大学に入学した。一年生のころからYMCA活動に励んでいたヴォーリズは 海外伝道学生奉仕団のコロラド州代表として出席するほどになり そこで生涯を決める話を聞くことになる。  

仏教圏の中国で 幾多の修羅を潜り抜けて伝道に尽くしたハワード・テイラー女史の話しに深く感銘し、外国伝道に身を捧げる決心をするに至る。そして大学での専攻も 建築から哲学にかえている。 しかし 神学校の課程を修得していないので 正式な宣教師にはなれない。そこで 専門の宣教師としてでなく 一般的な生活をしながらキリスト教の伝道活動をしていく事を生涯の目的としたのであった。そうして 派遣されたのが明治の後半にさしかかった日本であった。  最初は英語教師として、そして建築家、メンソレータムの販売会社、ハモンドオルガンや建築建材などの輸入会社などの幾多の事業をしていたはそういった理由からであった  

 

 現在も残る設計事務所(株)一粒社ヴォーリズ建築事務所にはヴォーリズの言葉が残っている。

「最小限度の経費で最高の満足を請け合う為に確かな努力をする」

「住宅は住む為に、学校は教育的計画の為の家として考案された道具、病院は病人の自然な回復力を助ける為の機械、商業建築は能率的な業務運営の中心である」

「建物の風格は人間の人格と同じく、その外見よりもむしろその内容にある」  

 

これらの考え方は 一般に近代建築といわれる当時の建築の主流にある考え方で 近代建築の父と言われたル・コルビュジェの

「住宅は住むための機械である」

や 旧帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの師匠であるサリヴァンの

「形態は機能に従う」

といった当時の主要な建築家の言葉と重なる部分が多い。  

 

建築の多くは「時代そのもの」や「集団の精神」を表現している。

また 一つの地域(国家)の建築は その国民が最も影響を受けた文化を持ち込んだ国の建築に似ていることが多い。  安い材料を使い、簡単な工法、古典的な様式と華美でない装飾などヴォーリズに共通する特徴は そういった意味でヴォーリズが西部出身のアメリカ人であるという事とプロテスタントの伝道師であったという事と直接結びついて最も重要な事柄であるといえる。  そんな事を考えていくと、ヴォーリズが表現していたのは 

「プロテスタント系キリスト教」

の考え方とそして

「フロンティアスピリッツ」

の精神そのものであったと言える。

 

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