Text

野尻湖ホテル

 

 初めてこの地を訪れた数年前 8月の4週目のまだ昼間は強い日差しが照りつける野尻湖にしては暑い日だった。斑尾から山を越えてこの地に入り 野尻湖周遊道路と書かれただけで森に囲まれてほとんど湖が見えない道を走っていた時 ふと気になったホテルに立ち寄った。

現在の天皇陛下が滞在したことがあるという割には親近感のあるそのホテルは なぜか周辺の宿泊施設から離れ 独立して存在していた。

ただ小一時間過ごしただけだったこともあり その不思議な感覚を持つそのホテルのことは、その後 記憶の片隅の意識と無意識の狭間に鎮座してしまい 時折何かの拍子に気まぐれに思い出す程度だった。 そのホテルはもちろん野尻湖ホテルなのだが 今回の話があったときに きっとあのホテルだろうと直感した。建物の写真を拝見しても記憶は春先の濃霧の様に輪郭がぼやけて思い出さずにいたが 再訪して雪に埋もれたホテルのエントランスに立ったとき あの時と同じ不思議な場所感覚に再会した。そしてあの当時野尻湖やホテルの地理的な場所、周遊道路から見ることができない事にも関わらずホテルに立ち寄ったという事実に あの土地や建物のちからを感じている。

 昭和初期 恐慌が起きた後 8年に政府が外貨獲得を目的とした外国人観光客積極誘致のためのポテル建設政策を始めた。

伊豆の川奈ホテル・軽井沢万平ホテル新館・日光金谷ホテル別館を初めとして 県営でも上高地観光ホテル(上高地帝国ホテル)志賀高原ホテルなどが 同時期に建てられた国策ホテルである。

軽井沢が外国人の為のリゾート地としてつとに有名だが 既に外人村を形成していた日本国内の第二の外国人用別荘地であるわが野尻湖にも白羽の矢が立てられ県営ホテルを建設することになる。経営は、長野市近山商事株式会社(犀北館)に委託された。まず県がホテルを建設し、それを犀北館に経営させ、20年賦で同館に払下げることにした。契約は10年になされ、ホテルは翌11年10月に竣工し、12年5月に開業している(野尻湖ホテル所蔵文書)。

 設計者の名は十代田三郎といい、信州出身の建築家である。明治27年に川中島の笹井村の地主の子として生まれ、長野中学を出た後、早稲田大学の建築科に入り、やがて教授となり、木造建築の防火や防蟻などの研究で活躍し、昭和41年に没している。犀北館の主人が芸術愛好家として画家のパトロンをしていたことから、施設の至る所に東郷青児や中村不折といった一流画家の絵画が掛けられていた。

場所は野尻湖の北側に湖の中心に向けて突き出るようになっている半島部分の先端の尾根沿いに配置されている。

建物は 木造で屋根が茅葺き屋根、壁面はヨーロッパの民家風となっている。

内側は ロビーや食堂などの共用空間は外壁と同じ様式で 客室は筆者が見学したときには和風のものしか見られなかったが洋式も備えられているとの事だった。 外観を和風にしたホテルはいくつかあるが本来は民家の作りである茅葺きを使ったのは全国でも唯一の例である。

 

 設計者の目から見た施設のポイントをあげてみることにした。

ホテルという性格上 内装は必然的に洋式になる。 当時はまだ鉄筋コンクリートや鉄骨造は造られ初めて間もない頃で この用途の建物で採用されることはまだ少なかったようだ。都市部以外という場所柄や技術的なことも含めて考慮すると木造になる。

明治期の国策ホテルは 外観が日本的な様式で建てているところも多いが 昭和初期に建てられたホテルはほとんど西洋式の外観を採用している。野尻湖ホテルの場合、壁面がヨーロッパの民家風なのはともかくとして 屋根を茅葺きにするという選択は、通常ではしないと思われる。他の形式 たとえば瓦屋根等は洋式になると特別に制作する必要があるためメンテナンスの事や積雪の事を考慮して選考から外すとしても 鉄板の屋根ならば職人もいるだろうし技術的にもそれほど問題ないはずである。国や県から設計者への依頼も 外観は屋根も外壁も洋式でという話だった可能性が高い。

どうやら 設計者は景観を壊さないように配慮したらしい。

現代の感覚で捕らえると 建物自体をよほど大きくしない限りヨーロッパの民家風の屋根でも景観を壊さないように思える。今と違って当時の日本は景観に関する意識がかなり気薄であっただろうし 階級制度があった時代に一般の人たちが国策ホテルの外観に影響力があったとは思えない。そう考えると設計者の好みで強引に創ったのかとも思うが  外国の要人を招く迎賓館を 和風の権威である建築家 村野籐吾にベルサイユ宮殿の様に作らせる政府の事である、それだけの理由で折衷様式にはしないだろう。

ひとつ気になるのは野尻湖における外人村との位置関係で 湖の対岸に位置しほぼ正面に見える。そんなことや当時の外国人の影響力の大きさから考えると この外人村の人達の目または意見を考慮してこうした結論になったのだろうと推測される。 また当時の湖畔の風景が それほど気を使わなければならなかったほど絶景で 住んでいる人たちはもちろんのこと設計者や官庁の担当者も含めた関係者を納得させるものがあったと思われる。

このホテルには展望室と呼ばれる部屋があり それを創ったところに設計者がこの土地の特性を理解し ここからの景色に惚れ込んでいたことがわかる。 展望室は野尻湖の全容が見渡せるよう半島と同じ方向に突き出すように長方形に造られ 部屋の三方に横長の連続窓が切られ、湖の対面に位置する山々と対等の位置に立てるように最上階に配置された。 そこからは 広がる湖面の向こうに飯綱、黒姫、妙高山がそれぞれ見える。中でもここからの黒姫山の眺めは素晴らしく この山が潜在させている「ちから」をとてもよく表現でき、山と対話することのできる構図となっている。(写真参照)

 スイスにツェルマットというリゾート地がある。 マッターホルンへの登山者の存在が部落のできるきっかけとなったという町である。そこは全体が自動車通行禁止になっていて、町に入るには登山電車で登ってくるか、自動車を町の入り口にある駐車場に留めるしかない。町中の道もメインの通りは車が通れる幅の道なのだが それ以外は狭い。町中の荷物の運搬は小さな電気自動車で補っていた。

また 大規模なホテルが無く 小から中規模のスイスらしい建物のホテルが軒を連ねていることと相まって とても雰囲気がいい。 リゾート以外に目的のない山間部の小さな町なので こうしたことができるところもあるが ともかく、町ぐるみで関心を持ち 協議し検討し結束していかないとこうした成果にはならないことだけは確かである。

 

 プロフィール

数年前より別荘の設計をきっかけにして 度々信濃町に来るようになる。 別荘は建ったが それ以来 理由を見つけては野尻に来る日々 東京在住

Next