ピアノ・ソナタ ハ長調 K.545


内田光子(P) (PHILIPS 422 115-2)
 
ピアノの初級者が弾くのにいちばん簡単な調性は,もちろんシャープやフラットが1個もついていないハ長調である。ハイドン,モーツァルト以降ロマン派の時代になると,ピアノ曲でこの単純な調性を使う作曲家はだんだん減って,ショパンなどになると,白鍵よりも黒鍵の方がむしろ活躍する(それだけシャープやフラットが多いということ)曲を多く書いている。
 このK.545のソナタは調性の問題だけでなく,右手と左手の技巧も平易に書かれているので,「初級者向けの易しいソナタ」と言われている。しかし,曲がシンプルで易しいからこそ,弾く者の音楽性がたちどころにわかってしまうというコワイ曲でもある。日本でもピアノの生徒が必ず練習するであろう第1楽章冒頭の主題。ド〜ミソシ〜ドレド〜…。ピアノを習っていた弟が小学生の頃繰り返し練習していたのを思い出す。最近再びピアノをやりだしたわがSt Aubinsの管理人も何とかつかえないで弾こうと練習を重ねている。この主題は何でもないようでいて,なめらかにしかも感情を込めて弾くのはとても難しい。続いて出てくる16分音符の上昇音階と下降音階の部分は,初級者が弾くと,それこそただの音階の練習みたいになってしまうが,ちゃんとしたプロが弾くと,これもモーツァルトならではの歌に変わってしまう。
 もう亡くなった名手であるが,フリードリヒ・グルダの弾く演奏を聴いたことがある。グルダはクラシック・ピアノだけでなく,ジャズ・ピアノの名手としても鳴らした人だが,彼はジャズの即興演奏を思わせる装飾を自由に加えた斬新な演奏を聴かせた。こういう解釈を好まないファンもいるだろうが私にはおもしろかった。元がシンプルな曲だけに装飾的・即興的演奏が引き立つということもあるし,即興演奏のモーツァルト自身が自分のソナタを弾くときには即興的に「くずした」演奏をしたに違いないということがあるからだ。もちろんこういうことができるのはピアノの達人であるからであって,初級者はまず楽譜どおりに弾く練習をしなければならないことは言うまでもない。シンプルにして奥の深いK.545なのであった。

*MIDI:第1楽章(Allegro)