Seiji at Piano Recital 2009

   

 ピアノの発表会に出る生徒さんの年齢構成が一般的にどのようになっているのかは知らないが,他の教室の話も聞いたところでは,どうも小学校中学年〜高学年の”人口”が最も多いように思える。昨年せいじが小6だったときには発表会に出た同級生(全員女の子だが)がたくさんいたのに,中1になった今年,発表会に出た同級生は一人だけ。これには,中学になるとクラブ活動や勉強が忙しくなるという事情があるだろう。うちのせいじにしても,クラブにこそ入ってはいないが,塾に通うし,定期試験の前は勉強に時間を割くようになったので,小学校の頃ほど帰宅後にずっとピアノを弾くという環境ではなくなった。ピアノにしろ、ヴァイオリンにしろ、年齢が進むにつれ,本気で続けるのは難しくなってくる。さらに,この経済状況では,親も本人も音楽より将来の”就職”が心配になっても不思議ではない。就職上,音楽ほど「つぶしのきかない」分野もあまりないので(プロになるのはほんの一握り),「音楽をいつまでも子どもに一生懸命やってもらっても困る。」という話をせいじのピアノ教室の親御さんから聞いたこともある。
 しかし一方で,音楽も少なくとも”あるところまで”は本気でやらないと,身につかないというか高度な技巧を要する曲を演奏できるレベルに到達しないというのも事実。私はヴァイオリンしか弾けないので,ピアノの技術的なことの詳細は分からないが,せいじが「いつか弾きたい」と言っているベートーヴェンの「熱情」や「ワルトシュタイン」を弾きこなすようになるのが決して簡単なことではないだろうということくらいは想像がつく。せいじのその気持ちが本気である限りは,たとえ”就職氷河期”であろうと,ピアノを続けさせてやりたいと思っている。仕事や会社は変わり得るが(私もそう),モーツァルトやベートーヴェンの音楽が一生の友であることは絶対に変わらないからだ。
 さて、星史が今回ソロで弾いた演目は,
 
シューベルト 即興曲 作品90 第4番
 ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第8番 「悲愴」 より第1楽章

の2曲。
 シューベルトの「即興曲」は、せいじと先生の間にちょっとした行き違いがあり,本人は発表会で弾くつもりだったものの,先生は発表会は「悲愴」だけをやらせるつもりで,約3週間前のリハーサル前に初めてお互いの誤解に気付いたらしい。しかし,そこは頑固な息子のこと,出来がどうあれ発表会で絶対弾くと言って聞かず,発表会にしては長い曲を一人で2曲弾くことになった。私とのヴァイオリン・デュオもやることが決まっていたから全部で3曲となり,それ以来レッスンも急きょ「即興曲」中心に切り替えていただいたが,いかんせん準備不足の感は否めず,発表会直前のレッスンでも問題山積という感じでいろいろ指摘を受けて本人も凹んで帰ってきた。
 こういう事情だから、当然出来は「悲愴」の方がよい。しかし,せいじにとって”念願”であった悲愴ソナタの1楽章をお客さんの居るステージで弾くことができて,しかも弾いたのがスタインウェイの素晴らしいフルコンサート・グランドであるから,まだまだ課題はたくさんあると言っても、本人には幸せな1日だったことだろう。

●ベートーヴェン ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 作品13 「悲愴」 第1楽章 (Seiji, 2009.11.21録音)
 上に書いたようにせいじにとってこの曲の1楽章を弾くことはかなり前からの”念願”であった。ポピュラー・ソングにもアレンジされて有名な2楽章ではなく,1楽章がである…。どうしてこの1楽章への思い入れがとくに強くなったのかは多分本人にもうまく説明できないと思うが,せいじの気持ちを高ぶらせる熱いもの,力強いものがこの曲にはあるのだろう。もう一段高い”念願”である「熱情」や「ワルトシュタイン」へのステップだと思う気持ちもあるかもしれない。また,私がベートーヴェンの曲が好きで,家でいろいろなCDをかけたり,ヴァイオリン・ソナタやカルテットの練習をしていることも影響しているのかもしれない。いずれにせよ,「悲愴」ソナタの1楽章がいかにもベートーヴェンらしい切迫感,高揚感に満ちた音楽であることは間違いなく,初期の作品の中では作品18の弦楽四重奏曲と共に最も優れた作品であることは明らかだ。
 私もせいじに”逆影響”され,随分と「悲愴」ソナタのCDを買い集めて,15種ほどを聴き比べた。このソナタの1楽章には,演奏のスタイル以前に,繰返しを行うのか,行うとしたら冒頭のGraveの部分からなのか,11小節目のAllegroの部分からなのかという大きな問題があるらしく,どの”やり方”を採るかは演奏家によってまちまちである。だが,全く繰返しを行わない往年のバックハウスやケンプのような演奏家は少なくとも最近は少なく,GraveあるいはAllegroの部分から繰返しを行う演奏家がほとんどである。また,冒頭のGraveはゆったりと弾くのが最近は主流のようである。20世紀最大のベートーヴェン弾きといわれたバックハウスは,冒頭のGraveを非常に速いテンポで弾いている。せいじの先生もこの速めのテンポで弾かせようとせいじを大分説得したようであるが(ゆっくり弾くと拍感を出すのが難しいため),Allegroの部分との対比を強調したいせいじは,Graveの部分はゆっくり弾きたいといって,結局最後まで譲らなかった。たしかに,今の耳で聞くとバックハウスのGraveは速すぎるような気もするのだが,以前はこれが当たり前だったのかもしれない。
 せいじは,本番もゆったりめのテンポで冒頭のGraveを弾き始め,1楽章終結部の294小節のフェルマータから295小節Graveの頭にかけての休符については,むしろいつもより”間”をたっぷりと取った弾き方をした。先生は内心ハラハラしながら聴いていたかもしれない。なお,時間の限られた発表会であるからせいじは当然繰返しは行っていない。
 いろいろと聴き比べた「悲愴」の演奏の中では,私は音色にこだわったシフの新しい録音(ページ上部のCD)が好きである。シフ自身の詳しい曲目解説やECMの録音も素晴らしい。協奏曲第4番等とカップリングしたルイサダのひねりをきかせた個性的な演奏もおもしろかった。一方,せいじは比較的オーソドックスなポリーニやギレリスの録音が好みで,(CDにはなっていないようだが)以前NHKで放映されたツィマーマンの日本公演もお気に入り(これは我が家のお宝映像)。別のCDの解説で偶然知ったことだが,「悲愴」はツィマーマンがデビュー・リサイタルで弾いた曲のようだ。彼もこの曲への思い入れは深いはずだ。




●シューベルト 即興曲 作品90 第4番 変イ長調 (Seiji, 2009.11.21録音)
 シューベルトの音楽がその「冗長」さも含めて好きである。「冗長」というと,普通は悪い意味に使うものであるが,シューベルトの場合は,それがシューマンの言うところの「天国的長さ」(これは交響曲第8番「グレート」を指しての言葉)にも通じ,「ずっと美しい音楽が終わってほしくない」という至福の時間を聴く者に与えてくれる。ピアノ曲では,最後の長大な変ロ長調ソナタ(D.960)など,その最たるものだろう。ただし,それはもちろん演奏が素晴らしいものであるという条件つき。平凡でつまらない演奏では,シューベルトはそれこそ本当にただの「冗長」な音楽になってしまう。
 一曲一曲が後期のソナタよりはるかに短い「即興曲」でも,弾き方によってそれは魅力的な冗長さにも退屈な冗長さにもなる。第4番は嬰ハ短調の情熱的なトリオを除けば,右手はひたすらアルペジオの下降音型を繰り返す。低音部に徐々に浮かび上がる息の長い旋律はあるものの,基本的に右手の音型はほとんど同じだ。その中で微妙な雰囲気や感情の変化を出していかなければいけないが,その点でせいじの演奏はまだ未完成である。トリオでは,暗譜を忘れるという失敗もしたが,そこでは頭の中で楽譜をめくったら突然「真っ白」になったということらしい。本人曰くシューベルトの「即興曲」は,「悲愴」のように指に曲を覚えさせることは出来ず,頭の中でページをめくるような暗譜をしていかないといけないらしい。
 「悲愴」ソナタと同様,昔と今では弾き方が違うかもしれないと思うのは,アルペジオの16分音符の後の8分音符の弾き方。楽譜ではこの8分音符はスタカートになっているものの,最近のシフや内田光子(どちらも私の好きな演奏)では,8分音符を長めに柔らかく弾き,その後の8分休符をほとんど感じさせずに次の小節の16分音符に柔らかくつなげている。ところが,20世紀を代表する巨匠であったホロヴィッツの昔の録音を聴いてみると,この8分音符がすべてブツッとまさにスタカート的に切れている。せいじは柔らかくつなぐやり方で先生に教えを受けたが,ここの部分の微妙なタッチのコントロールがなかなか難しいようであった。「悲愴」ソナタとは全く違った柔らかい音色,タッチが求められるこの曲は,”剛”より”柔”が苦手なせいじにとってよい教材になったはずである。



(2009.11.23)