マタイ受難曲の世界


このページのBGMは「マタイ受難曲」の有名なコラール「血潮したたる主のみかしら」です。
ShibataさんMIDIで聴く「マタイ受難曲」のページからお借りしました。


  
(左)風格あるカール・リヒターのマタイ(LP)のジャケット (右)LPの分厚い解説書



CDで再発売されたカール・リヒターのマタイ


「四旬節」とイエス・キリストの「受難」

 イースター(復活祭)を準備するための40日の期間をキリスト教会暦では「四旬節」あるいは「受難節」(英語ではレントという)と呼ぶ。40日という期間はイエス・キリストが荒野で40日間祈りと断食を行ったという聖書の記述にちなんでいる。古代教会では,イースターの前に信者が40日間の祈りと断食の生活を送っていた。中世の時代に入っても,断食の習慣,とくに四旬節に肉を食べないという習慣は守られ,四旬節の始まりに先立つ数日は「カーニヴァル」(肉よさらば)というお祭り騒ぎとして定着し,現在でもヨーロッパ各国で盛大に祝われている。また,一説では断食後のイースターのお祝いで食された卵(昔は大変な貴重品だった)がイースター・エッグになったと言われている。イースターに関する中世の食習慣を論じたおもしろい本として,My Libraryでも取り上げた「中世の食卓から」石井美樹子 著(筑摩書房)があるので,興味のある方には御一読を薦めたい。
 一方,「受難」という言葉は,キリスト教国でない日本では必ずしも一般化しているとはいえないが,イエス・キリストが無実の罪で捕らえられて裁判にかけられ,ついには十字架上で刑死したことを指している。このようなキリストの「受難」はヨーロッパの文学,絵画,音楽等あらゆる芸術における最も重要な題材の一つとして,中世から現在に至るまで繰り返し取り上げられてきた。しかし,キリスト教にとってイエス・キリストの十字架上の死は「受難」ではあっても「悲劇」ではない。その後の「復活」があるからである。本来はイエス・キリストに倣って祈りと断食の生活を送り,信仰を堅固なものとするためにあった「四旬節」であるが,庶民感情としてはその後のイースターの祝いを一層楽しむためのお膳立てという意味合いもあったに違いない。季節ごとの宗教行事を通して,日常生活に節目やメリハリをつけていた昔の人のすばらしい知恵と生き生きとした姿が彷彿としてくる。
 このように考えていくと,バッハの作品に限らず,「受難曲」というものを単に暗い悲劇的な音楽作品としてとらえることが明らかに間違っていることが分かる。バッハの「マタイ受難曲」は,イエス・キリストの受難と死を時系列的に扱ってゆく作品であるから,明るく喜ばしい気分の音楽となるはずはないが,受難は終わりでなく新たな始まりであり,その先に見えているのは復活の喜びと救いの希望である。バッハの「マタイ受難曲」の音楽がイエス・キリストの死を境にむしろ緊張感が解け,安らかなものとなっていくのもそのためであろう。


誰でも楽しめる「マタイ受難曲」

 受難曲(PASSION)とは,ユダの裏切りから,イエス・キリストの逮捕,裁判,十字架上の死という一連の出来事を物語風に歌った劇音楽である。聖書の句を朗唱するエヴァンゲリスト(福音史家)と,イエス・キリストをはじめペテロ,ピラト,ユダら登場人物の言葉を歌うソリストと合唱によって展開していく。40日間にわたる四旬節も棕櫚の主日(枝の日曜)に終わり,いよいよ受難の日とされる聖金曜日に向け聖週間が始まる。伝統的に「受難曲」は聖金曜日の夕べの礼拝にて演奏されるものとされた。「受難曲」はバッハの創作した形式ではなく,「受難曲」の頂点ともいうべきバッハの「マタイ受難曲」が生まれるまでには,多くの先人の試みがあったことを忘れるわけにはいかない。とくにバッハよりもちょうど100年前に生まれたドイツの先輩作曲家ハインリヒ・シュッツは,バッハと違って合唱だけによる地味な作品ながら,「マタイ受難曲」,「ヨハネ受難曲」,「ルカ受難曲」という3つの優れた受難曲を残している。
 しかしながら今日「受難曲」というと,誰もがバッハの「マタイ受難曲」を真っ先に想起するのは,この作品が教会音楽の最高峰であるばかりでなく,古今のすべての音楽の中で最高の作品というべき高みに達しているからである。その規模の大きさと音楽の大きさ,深さは圧倒的であり,それでいて同時に親しみやすい美しいアリアが随所にちりばめられている。
 ただ,残念ながら「マタイ受難曲」が日本で損をしているのは,「受難」というキリスト教用語の硬い響きもあってか,小難しくて辛気臭い曲というイメージがあることである。(パッションという響きの方が数段いいですね。)もう一つ問題なのは,「マタイ受難曲」がバッハの最も偉大な教会音楽であるばかりでなく,西洋音楽史上最高とも言うべき深さを持った作品であることから,「一生に何回も聴くような音楽ではない」,「襟を正して最初から最後まで真剣に聴くべき作品である」といったような,暗にこの曲を普通の気持ちで聴くことを戒めるような「精神論」をぶつ音楽学者や評論家が少なくないことである。もちろん「マタイ受難曲」は軽い音楽ではないが,こういった「正論」が,これからバッハに親しもうという人の「ためしに「マタイ受難曲」を聴いてみよう」という気持ちに水をさしてしまうとしたら,実に馬鹿げたことだ。
 さらに,オペラは好きだけれども宗教曲はどうも…という人もいるに違いない。ところが実際は,クリスチャンでなければ「マタイ受難曲」は分からないということはもちろんないし,オペラ,たとえばモーツァルトの「魔笛」やワーグナーの「タンホイザー」と同じように心から楽しみ,感動できる作品であると断言できる。いたずらに「マタイ受難曲」を神聖視することはない。一度全曲を聴き通してみれば,誰しもすばらしいと感じる合唱やソロのアリアがあるだろう。その後で,オペラのお気に入りのアリアを聴くように,気に入った曲だけを繰り返し聴いてもいい。余計な先入観はすべて脇に置いて,「マタイ受難曲」の魅力的な音楽を「普通の気持ち」で楽しもうではありませんか!
 

「マタイ受難曲」ハイライト

 バッハの「マタイ受難曲」は,一部の音楽学者や評論家だけではなく,誰にでも気軽に楽しめる音楽だという視点に立ち,初めて「マタイ受難曲」を聴く人のために,コラールやアリアを中心にした最低限の「聴きどころ」 を私なりに選んでみました。「マタイ受難曲」の素晴らしさの一端が,これらの曲から十分分かると思います。なお,「マタイ受難曲」はバッハの旧版全集では全78曲で,新版全集では全68曲ですが,ここではカール・リヒターのCDに基づき,旧版全集の曲番号を採用することとします。
Chosei ShibataさんがMIDIで聴く「マタイ受難曲」というすばらしいページを開いているので,是非一度聴かれることをお薦めしたいと思います。下で取り上げた曲は,すべてShibataさんのサイトでMIDIが聴けます。(Shibataさんのサイトでは新版全集の曲番号が使われています。また曲の日本語訳がやや本欄とは違います。念のため。)

第1曲 合唱 「来たれ,娘たちよ,われと共に嘆け」
 大作「マタイ受難曲」は大きく第T部(第1〜35曲)と第U部(第36〜78曲)に分かれる。
 どの大作曲家も大作の冒頭の曲にはとりわけ気を使う。それで曲全体のイメージが決まるのだから当然のことだ。第T部の冒頭を飾る第1曲は,第1群,第2群に分かれた二重合唱を使った鮮烈きわまりない壮大な合唱曲。引きずるような重いホ短調のオーケストラ前奏に続き,第1群の合唱が,「来たれ,娘たちよ…」と歌い出す。二重合唱は,「見よ」,「だれを?」,「花婿を」というように,呼びかけ合いながら進展し,やがてボーイソプラノの合唱で「おお神の子羊,罪なくして…」という美しい旋律が入ってくる。聴く者を曲の最初からとらえて離さないすばらしい合唱である。


第12曲 ソプラノ・アリア 「血を流せ わが心よ!」
 イエスを裏切るユダの決心を受けてソプラノが歌う悲しみのアリア。2本のフルートと弦に現れる途切れるような嘆きの音型にのって歌われるアリアは実に切々としていてしかも美しい。


第19曲 ソプラノ・アリア 「われは汝に心を捧げん」
 「マタイ受難曲」は暗い曲ばかりだと思っている人のために,明るく美しいアリアをあげよう。オーボエ・ダモーレの牧歌的なオブリガートにのって歌われるソプラノの軽やかなメロディーは,「マタイ受難曲」の音楽としての幅の広さを感じさせる。


第35曲 コラール 「人よ,汝の大いなる罪を悲しめ」
 第T部の最後を飾るのは,イエス捕縛の場面を描く壮大なコラールである。各パートの緻密な掛け合い,雄弁なオーケストラがすばらしい。低弦にはジャズを思わせる旋律が繰り返し反復され,あれっ?と思う人もいることだろう。


第47曲 アルト・アリア 「憐れみたまえ,わが神よ」
 「マタイ受難曲」の中でもとくに有名なアルト・アリア。「私を知らない」と三たび言うであろうというイエスの予言通りになってしまったペテロの深い悲しみが表現されている。美しいソロ・ヴァイオリンと哀切きわまりないアルトの歌声は,誰しも一度聴いたら忘れられないだろう。このソロ・ヴァイオリンの旋律は,晩年の「音楽の捧げもの」のトリオ・ソナタ1楽章でヴァイオリンが弾く旋律と類似しており,いかにもバッハ的な名旋律である。


第51曲 バス・アリア 「われに返せ,わがイエスをば!」
 第47曲のアリアと並び,ヴァイオリン・ソロがすばらしい活躍を見せるアリア。イエスを裏切ったユダが後悔に苛まれ,自ら首をくくった場面で歌われる。ところがこの悲愴きわまりない場面で歌われるアリアは思いのほか明るい。16分音符を刻むヴァイオリン・オブリガードに乗ってバスが堂々とした旋律を力強く歌い出す。「マタイ」の中でも屈指の「カッコいい」アリアである。


第63曲 コラール 「血潮したたる主のみかしら」
 一度聴いたら忘れられないこの美しい受難のコラール(このページのBGMです。)も実はバッハ作のメロディーではなく,ハンス・レオ・ハスラーというバッハより大分前のドイツの作曲家が1601年に出版した歌曲集に収められた「私の心は千々に乱れ」という恋の歌なのである。荘厳な「マタイ受難曲」で最も重要なコラールの元が恋の歌というのはいい話ではないか。「マタイ受難曲」では,このコラールの旋律が調性や歌詞を変えつつ,繰り返し使われている。この第63曲では,合唱の強く張り詰めた歌い方が,いよいよ緊迫した場面が迫ったことを教えてくれる。


第71曲 レチタティーヴォ 「昼の12時より地の上あまねく暗くなりて」
第72曲 コラール 「いつの日かわれ去り逝くとき」
第73曲 レチタティーヴォ 「見よ,そのとき神殿の幕,上より下まで真っ二つに裂け」

 ついにイエスは十字架にかけられた。「わが神,わが神,なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んで息絶えるイエスと,たちまち起こる天変地異,そしてイエスが真に神の子であったことを知る民衆。ドラマとして最大のクライマックスにあたる第71曲〜第73曲は,バッハの音楽としても全曲のうちで最も感動的な部分である。
 すべての教会音楽やオペラを含めて,バッハの第71曲のレチタティーヴォほど,言葉の重みというものを感じさせる真実味に溢れた「レチタティーヴォ」を私は知らない。その後の第72曲のコラールでは,第63曲と同じ受難のコラールが今度は静かに感銘深く歌われる。何回も出てきたこのコラールが登場するのも第72曲が最後である。第73曲のレチタティーヴォでは,天変地異がオルガンと通奏低音の激しい強奏で示される。エヴァンゲリストの「…地震とこれらの出来事とを見て,いたく恐れて言い…」に続く合唱「げにこの人は,神の子なりき」は,わずか20〜30秒の短い音楽ながら,涙なくしては聴けない感動的なもの。


第75曲 バス・アリア 「わが心よ,おのれを潔めよ」
 イエスの死を境にバッハの音楽は安らかで穏やかなものとなっていく。そのような曲調の変化を映す第75曲のバス・アリアは,「マタイ受難曲」の中で私が最も好きなアリアの一つである。声とヴァイオリン合奏が交互に甘美な旋律を繰り返し歌う。"Mache dich, mein Herze rein..."とメロディーを思わず口ずさんでしまう素敵なアリアである。


第78曲 終結合唱 「われら涙流しつつひざまずき」
 壮大な合唱で始まった「マタイ受難曲」もこの第78曲の合唱でついに幕を閉じる。ゆったりとした主旋律は,単純な音型ながら一度聴いたら忘れられない不思議な魅力を持っている。それまでに起こったことをすべて包み込むような,この大らかな合唱曲こそ「マタイ受難曲」の最後を飾るのにふさわしい。


カール・リヒターの「マタイ」

 音楽ファンには人それぞれ,「いろいろ他にも演奏はあるけど,この曲に関してはこの演奏でなくてはダメ!」という絶対的に思い入れの強いディスクがあると思う。私にとってそのような演奏こそ,若き日のカール・リヒターが1958年に録音したアルヒーフ盤の「マタイ受難曲」である。高校生のときにLPを手に入れ,CD時代になって買い直した。その間他のCDを聴いたり,生の全曲演奏も2度聴いたが,私にとっては常に「マタイ」イコール カール・リヒターの「マタイ」であった。
 カール・リヒターの「マタイ」のどこがどのように他の演奏と違うのだと聞かれると,すべてとしか答えようがない。ピンと張り詰めた緊張感,柔軟性のあるテンポとリズム,クライマックスに向けての高揚感,聖書のことばと完全に一体化したエルンスト・ヘフリガーのエヴァンゲリスト,フィッシャー=ディースカウらソリスト陣の歌う聴く者の心を震わせずにはおかないアリア。しかもそれらが個々の長所に終わらず全体として統一されている。古いLP盤の解説では,音楽評論家の吉田秀和氏がリヒターの演奏を「黄金の中庸」と評していた。まさに至言である。西洋音楽史上最高の音楽作品に,リヒター以下すべての参加メンバーが持てる能力のすべてを出し切って完成させた20世紀の演奏史に残る偉大な金字塔というほかはない。
 ページ・トップにカール・リヒターのマタイのLPとCDのジャケット写真を載せた。CDに比べてLPはデザインも大きさもはるかに風格があり,世紀の大名盤のイメージにぴったりだった。加えて分厚い解説・対訳書には,受難のシーンを描いたデューラーの版画もふんだんに使われ実に見応えがあった。CD時代になり仕方のないこととはいえ,LPの持っていた重厚感が失われたのは残念である。