わが戦記(1)

兵役、そして戦地へ

なぜ軍隊に入つたのか今の若い人には分かるまいが、明治初期わが国でも徴兵制度がとり入れられ、男子は満20歳になると徴兵検査を受け、身体強健な者は皆ある期間軍隊に入らなければならなかった国民の国を守るための義務である。

検査の結果甲種、乙種、丙種、に分類された。私は近眼のため第1乙だが甲種と共に現役兵として即入営、第2乙、丙は入営は免れたが、後日戦局の激化に伴い大半の者は補充兵として戦線へかり出された。

私は学生であったので一年遅れの検査で軍隊へ入った。昭和17年熊本の工兵連隊である。入営した者は皆大学、高専卒である。

新兵として入営した者は120名、暫くして試験があり3段階に分れた。甲種幹部候補生、乙種幹部候補生、その他である。甲種幹部候補生は将校に、乙種幹部候補生は下士官に,その他は兵隊のままとその将来が決められていた。

私は甲幹となり松戸の陸軍工兵学校幹部候補生隊で1年間、将校になるための教育を受けた。作戦要務令、工兵操典などの学科、実技としては、野戦戦闘、操舟、架橋、爆破、対戦車法、トーチカ攻撃、坑道、その他である。

工兵学校卒業と共に南方派遣要員となり、更に築城技術習得のため陸軍築城部に転属になつた。陸軍築城部は永田町1丁目1番地、皇居お堀端の今の最高裁判所の位置にあつた。

築城の教育を受ける者は、我々見習士官と少尉さん、合わせて30人ぐらい、皆土木工学を習めた人ばかりである。

ここで数ケ月の教育が終わり、いよいよ戦地へ赴くことになった。南方軍総司令部築城部転属である。南方軍総司令部はサイゴンにあった。

 当時戦況は、次第に我が国に不利となっており、緒戦の勝利から、一転連合軍の反攻で制空制海権を奪われつつあった。戦地へ行く船の3分の1は、途中で敵潜水艦に沈められた。私のご恩になった大阪の栄叔父さんも、船が沈んで亡くなられた。

昭和19年6月私達は、6千トン級のタンカーで宇品を出港した。瀬戸内海をのんびりうらうら下関に着いた。私はその頃少尉に昇進した。

下関出港まで若干の日数があり、延岡にいる彼女に会いに行った。彼女とは60年前の老妻である。女学校の制服を脱いでまもなく、まだ皺はよっていなかった。彼女を伴って下関に行つた。門司駅で降りた時、ホームのスピーカーが言つた。「陸軍築城部の上杉少尉殿両親がお待ちです、駅長室においでください」と。行ってみると熊本の両親が来ていて、「出発が早くなった、集合場所に来るようにと連絡があつた」と軍刀を持って来てくれていた。「お父っつあん、おっ母さん、有難う、行ってくるよ」

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