わが戦記(2)   

輸送船〜フイリツピン

私達は排水量7千トンの輸送船に乗って下関を出航した。8隻の船団、駆逐艦が護衛していた。五島沖を通り東支那海を南下した。敵潜水艦は船の横腹を狙って魚雷を撃ってくる。輸送船は右左ジグザグ航法をとって進んだ。

イルカの一団が船の横をピョンピョン跳びまた潜っては跳びながらついて来る。可愛いい奴らだ。舷側から飽きもせず眺めていた。

私達は対潜哨戒の任務についた。船首に立つて波しぶきと風に耐えながら一心に魚雷航跡の発見に努めた。発見すれば船は直ちに進路方向を変える手筈になつていた。

7,8日して台湾の基隆港に着いた。海と空が青く空気の澄んだ港である。此処に2日停泊、いよいよバシー海峡へと進んだ。敵潜の跳梁する海である。

朝歯を磨いていたらブルルンと大きな音と共に船体が震動した。「やられた」と思った。隣の船だった。船尾が傾き煙が上っていた。その船は私達の船と平行し20分ぐらい走った。しかしやがて船尾の方から沈んでいつた。我々の「がんばれ、がんばれ」の声も空しかった。

やがて船団はマニラに着いた。マニラの繁華街アベニユー通りのホテルが宿舎となった。水洗便所というものを使ったことのない我々である。忽ち便器は富士山のように盛り上がった。 

南方軍総司令部、築城部所属となった。約1ケ月経った頃だろうか、私はデング熱に罹かつた。高熱がでる風土病である。マッキンレーの63兵站病院に入院した。病気は20日ばかりで治った。しかし退院させてくれない。軍医病院長は私に言つた。「病院下番を指揮して病院に防空壕を造れ、お前を退院させるか、させないかは俺の権限だ」と。病院下番とは病気が良くなった兵隊のことである。私はそれらの兵隊を指揮し、約2ケ月間病院の防空壕を掘らせた。

そして原隊に帰った。私が病院にいる間、東京築城部以来の同期生半数が、サイパン、パラオ、セブ島、レイテ等に派遣され、後日みんな戦死してしまった。私の熊本工兵連隊の同年兵、古田、田代、もその中に入つている。

私は努力家であつた。一少尉の身分で後日軍上層部と接触できたのも、この努力と習得した築城技術のお陰であろう

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