わが戦記(10)

捕虜収容所そして帰国

 私達将校は、下士官、兵と別個のキャンプに入れられた。天幕に帆布の寝台である。食料はまだ準備が出来ていないのか粗末だった。少ない時はテニスボールより小さい馬鈴薯1つとスープであった。米軍のとり扱いは紳士的であった。

 終戦前捕虜になった人がいた。我々は大先輩といって蔑んだ。戦陣訓にある「生きて囚虜の辱めを受けず」である。

 何もすることはない。毎日遊んで過ごした。収容所に入ってみたら他部隊の私の同期生は中尉の肩章をつけていた。

 約2ケ月して私を含めた少数に日本帰還の命令が下った。帰還第1号だ、運のよい男である。心は躍った。    

 九州出身の人2人から「自分が生きていることを家族に知らせて欲しい」と頼まれた。大分県坂ノ市と、熊本県天草姫戸の人である。帰国後お知らせしたら大変喜ばれた。

収容所からトラックでマニラ港へ送られた。 夕日の美しさで知られるマニラ湾を通つたら日本の軍艦が多数沈没していた。   

やがて日本の駆逐艦に乗せられた。 生き残りの駆逐艦が今度は輸送船に早変わりしていた。

昭和20年11月4日船はマニラ港を出発した。おもえばフイリッピンでは多数の日本兵が亡くなっている。(後で分かったが戦没者50万人,生還者11万人)

船はリンガエン湾を通過した。右手にバギオの山々が見えた。その奥には我々のいた戦場があり、沢山のわが戦友達が眠っている。甲板でしばし両手を合わせた。

フイリッピンに行く時は十数日かかったが帰りは僅か3日だった。鹿児島湾に入った。左手に薩摩半島、右手に大隈半島が見え瓦の屋根と障子がなつかしい。

やがて船は加治木港に着いた。そして私達は再び日本の土を踏むことができた。背中には PWと大書されたアメリカ兵の服を着たままである。

岸壁で帰還そして解散式が行われた。町長さんのねぎらいの言葉も、婦人会の接待も優しかった。此処で金3百円と弁当が支給され解散となった。私達は「ご苦労様でした」の声に送られて加治木駅へ歩きだした

終わり

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