わが戦記(9)

山岳地帯での戦闘(5)

 アメリカ軍の飛行機が何度もビラを撒いた。投降勧告である。「○月○日に竿の先に白旗を付け1列縦隊になって○○へ来い、投降と認める。当日は爆撃、砲撃を中止する」と、その通りピタリと止む。「オーイ、今日は洗濯をしよう。白いシャツも干していいぞ」 久しぶりに太陽を浴びて、棚田でおたまじやくしや芹の葉をとった。

 8月になって又ビラが落ちてきた。「広島に原子爆弾が投下され広島は全滅した」と書いてある。沈痛な気持ちになった。

 暫らくして又ビラが舞下りた。「日本は天皇陛下の命により戦争を終結した。日本軍の各部隊は師団ごとに集結し後の指示を待て」と、兵隊は私の顔を見た。「本当でしょうか」 私は「本当だろう」と言った。「ひよっとしたら日本へ帰れるかもしれない」とも思った。

 数日して師団長令で日本が降伏したことを知らされ、我々は山を下ることになった。我々は現地民イゴロット族の小さな家に住んでいた。残っている食料と、もう不要となる持ち物を床の上に綺麗に並べた。「大変ご迷惑をかけました」。

 山を下って武装解除されることになった。4,5キロ歩き峠に出た。そこには連合軍の兵隊が待っていた。オーストラリヤ兵であった。銃、弾薬、手榴弾、軍刀など、すべて押収された。私には「ピストール」と言った。私は下手な英語で「have no」と答えた。拳銃は前の陣地で崖を滑った時谷へ落としていた。

 我々はオーストラリヤ兵監視のもとに、トラックで何れかへ運ばれた。フイリッピン人の部落を通ると、住民が「japanese soldier パタイ」と叫んで「ピューンピューン」石を投げてきた。向かうの気持ちは分かるが、投げられる方はたまったものでない。

 引き続き今度は鉄道で運ばれた。石炭運搬車で屋根はなく上が広がり下はすぼめられた車両である。1両に数十人が乗せられた。線路の上に架かった橋の下を通過すると、橋の上で待機していた住民から大きな石をドーンと落とされた。貨車はやがてマニラに到着した。

 捕虜収容所に着いた。我々は裸にさせられ、持ち物なしで30メートル先のシャワーまで歩かされた。シャワーを浴びた後DDTを頭からぶっかけられアメリカ兵の服を着せられた。背中にはペンキでPWと大書してあった。PWとはprisoner of war 即ち捕虜のことである。靴も貰ったが20文ぐらいで大き過ぎて困った。

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