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群馬県藤岡市

平井城

2005年05月01日

平井城築城
平井城は永享10(1438)年に勃発した永享の乱に際し、時の関東管領山内上杉憲実が、総社(蒼海)の長尾忠房に命じて築城したとされる説と、応仁元(1467)年に上杉顕定が築城したとされる説がある。いずれにしても、天文21(1552)年の後北条氏の平井城攻めで落城するまで、関東管領山内上杉氏の居城としての役割を果たしていた。
城の構造は、「庚申掘」と称される掘をめぐらし、西平井の村落を取り込んだ「惣構」と呼ばれる構造で、城域の南端部の鮎川左岸の切り立った崖の上に、土塁及び掘により区画された通称本丸(主郭)があり、その西側に通称二の丸・笹曲輪(副郭)などが配されている。
なお平井城の背後には有事の際の要害城である金山城を「詰の城」として配置し、周辺は帰属する国人や配下の部将が築いた、御嶽城(金讃神社近く)・東日野金井城・一郷山城・東平井の砦・飛石の砦など多くの城や砦により守られていた。
(看板資料より)

関東管領と山内上杉氏
鎌倉幕府のあとをうけ、武家政治の再興をはかった足利尊氏は、政治上、軍事上の必要から京都に室町幕府を開いた。しかし、東国の武家勢力の拠点であった鎌倉を統治することが、東国支配において最も重要であると考え、幕府の機関として設置したのが鎌倉府である。
鎌倉府の主師として、当初、尊氏の嫡子の義詮(室町幕府二代将軍)がつとめたが、貞和5(1349)年、二男の基氏が鎌倉に入ってからは鎌倉公方と称され、その子孫が世襲した。鎌倉公方は、康正元(1455)年足利成氏が下総国古河に移り古河公方と称されるまで、関東八か国と甲斐・伊豆の二か国を支配下に置いた。
関東管領は、鎌倉公方の補佐役で、鎌倉府の最高職であった。その任命権は室町将軍にゆだねられていた。関東管領は、上杉憲顕が任命された以降、上杉氏の4家(山内・扇谷・犬懸・宅間)がこの職を世襲した。やがて関東管領は実権を握り、山内上杉氏がこれを独占していった。
(看板資料より)

城跡を探る
平井城跡主郭の発掘調査は、保存整備事業に伴い平成7年度から9年度にかけて行われました。調査の結果、裾部に石積みされた土塁、横掘(幅約12m、深さ約3m)、側面に石積みされた竪掘や橋脚台跡、掘立柱建物跡、竪穴状遺構、厠跡などがみつかり、15世紀中ごろから16世紀後半の遺物が出土しました。
「本丸」と呼称されている主郭は、ほぼ真南を頂点とする長径94m、短径70mほどの五角形をしています。主郭は西側から北をへて東側にかけて土塁と横掘で区画され、北側は土塁と横掘が二重に設けられています。二重掘の間にある外土塁は通称「二の丸」という副郭とつながり、主郭を包み込む構造であったと推定されます。主郭の東側には、竪掘や土橋、曲輪などがあり、この付近の横掘の底から石積みされた橋脚台跡が発見され、主郭への出入口(=虎口)があったと考えられます。二重掘の北側の地域は、かつて「殿小路」という小字で呼称されていました。殿小路側から「二の丸」寄りへ迂回させ、外土塁上を通って主郭の虎口に通じていたと推定されます。また、搦手口は副郭の「二の丸」・「笹曲輪」や、その背後に詰の城である金山城が配される主郭西南部に設けられていたと推定されます。こうした構造は、16世紀の中頃から後半に行われた大改修によって、戦闘用の城につくり変えられた時代のものと考えられます。
(看板資料より)


平井城関係戦乱敵味方戦没武士万霊供養

「永享の乱、古河公方足利成氏戦、長尾景春戦、上杉定正戦、越後長森原(六日町)戦、北条対川越戦、武田対信濃戦、平井城攻防戦、長尾景虎(謙信)平井城奪還戦、多比良新堀城戦、吉井町牛伏山戦、他戦没者」
と書かれていました。武田対信濃戦というのは小田井原合戦のことと思われます。
天文16(1547)年、武田信玄が志賀城を攻めた時に、志賀城城主である笠原清繁は平井城の上杉憲政に援軍を要請し、上杉の部将である金井秀景を総大将に三千の兵で碓氷峠を越えさせましたが、小田井原で武田軍に敗れました。信玄は更に上杉軍の戦死者の生首を志賀城のまわりに架けさせたといわれています。


関東管領上杉氏一族之碑

平井城は道路沿いに小さな公園としてきれいに整備されていましたが、奥の方に行ってみると鮎川の断崖絶壁になっていて、要害の地に築城されたことが分かります。

 
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