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山梨県甲府市

信玄火葬塚

2013年09月01日

 

甲斐国主武田信玄公御墓所について
天正元(1573)年4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波乱の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公はこれに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後24将の一人である土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於いて葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は土屋氏の邸跡で後世これを魔縁塚と呼び里人は恐れて近づかなかったという。それからおよそ二百年後の江戸時代安永8(1779)年甲府代官、中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸4月12日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。碑文は円光院住職・愚慶の書である。現在地域住民はここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月1回清掃奉仕を行い、自治会では年中行事として4月12日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤めありし日の国主を偲んでおります。
(看板資料より)

 



2005年01月09日

甲斐国主武田信玄公御墓所について
天正元(1573)年4月12日、信州伊那駒場で53歳を一期として、波乱の生涯を閉じた英雄信玄公はその臨終に際し三年間の秘喪を命じた。嫡子勝頼公はこれに従い、信玄公の遺骸を密かにして、三年後24将の一人である土屋右衛門昌次の邸内で荼毘に附し、天正4年4月16日、塩山、恵林寺に於いて葬礼を行い埋葬した。岩窪の墓所は土屋氏の邸跡で後世これを魔縁塚と呼び里人は恐れて近づかなかったという。それからおよそ二百年後の江戸時代安永8(1779)年甲府代官、中井清太夫が発掘して石棺を見つけ、その銘に「法性院機山信玄大居士・天正元年癸4月12日薨」とあったので、もとのように埋め幕府に届けて信玄公の墓と定めた。この時、東花輪村、田中喜衛門、西花輪村、内藤正助、外52人の武田家の旧臣有志が大石碑を建て、壮麗な聖域とした。碑文は円光院住職・愚慶の書である。現在地域住民はここを信玄公さんの墓と敬愛し、子供達と共に精神的憩いの場となっています。又地元老人クラブの人々が、毎月1回清掃奉仕を行い、自治会では年中行事として4月12日の命日に円光院並に近隣の寺院の協力に併せて、信玄公さんの祭りとして墓前法要を勤めありし日の国主を偲んでおります。
(看板資料より)

今回の目的地は河尻塚でしたが、河尻塚は信玄火葬塚の向かいにあったので久しぶりに信玄火葬塚に寄りました。荼毘に附したといわれているところは長岳寺がそうですが、ここでも同じように荼毘に附したといわれているところで江戸時代にここから信玄公の石棺が出てきたとのこと。神聖な気持ちになってしばらく立っていました。


2001年02月18日

信玄の遺骸は円光院門外の土屋右衛門邸で密葬され3年後に恵林寺へ改葬されたが約200年後の江戸時時代に、密葬された場所を中井清太夫が発掘し今に残る墓石が建立されたそうである。信玄火葬塚(信玄の墓)は円光院から歩いて10分くらいのところにあります。

信玄火葬塚

火葬塚の中にある信玄の墓石


信玄塚
恵林寺
福田寺
長岳寺

 

 
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