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長野県阿智村

長岳寺

2014年03月23日

NHKで放映の武田信玄公と当寺の関係、信玄公の死亡された所について各地に伝えられていますが、この寺は信玄公が野田城からの帰途、この駒場の山中で亡くなられましたので、当長岳寺に秘かにかつぎこまれ、こっそりと火葬にされたお寺です。境内に信玄公の灰塚供養の十三重の塔と遺品が残されています。
(看板資料より)

 



2004年9月20日

長岳寺は弘仁年間に伝教大師により創建、本尊は定朝作十一面観世音、また木槌山観照寺の本尊薬師如来が祀られ、縁結びの仏として最近は厄除けのひょうたんを授けています。
また武田信玄公を火葬にした寺として由緒ある寺です。武田信玄公は野田城攻め最中に肺患を得、病が重くなり三河から信州伊那を経ての帰途、元亀4年、天正元年4月12日信州伊那の郷、駒場の山中で信玄公53歳で落命されました。
当山には信玄公の義理の兄弟、下條家出身「六世裕教法印」が住職を務めていた関係で信玄公の遺骸は当山に運び入れられ、兵は影武者をたて、信玄公は生きているとし、古府中に帰る。そのあと当山を守っていた馬場美濃守、原備前、高坂弾正、下條伊豆守等の武将により、お骨にしてこっそり持ち帰られました。昭和49年4月、信玄公400年祭の折、その火葬塚より火葬灰を当山境内に移し、信玄公の供養塔として山梨県の由緒の者等及び当地の有志により、十三重塔が建立されました。
尚、昭和6年5月29日に長野県佐久郡岩村田町(現在佐久市)の古刹龍雲寺の境内にある古墓から貴重な物が発見されましたが、その中の一つの袈裟に環がありその環には、大檀越信玄公、元亀4年、天正元年4月12日於駒場卒戦時為舎利納。。。と文字が書き込まれていたものが出てきました。当山には信玄公が使用していた兜の前立て二種類があり、鍬形台三輪菊唐草透彫三鈷柄付と大日の丸練革製朱塗が保存されています。
(パンフレット資料より)

今回はお寺の方に会うことができ、拝観料200円支払って信玄公の遺品などを見ることができました。お寺の方の話によれば武田軍3万の軍勢が甲府に向って帰る行列は、先頭が長岳寺だとすると最後尾はまだ三河国だそうで、信玄公が亡くなられたときその行列がちょうどここにいたというだけで本当のことは分からないとのことでした。しかし同時に、「良く調べれば本当のことは分かってくる!」と意味ありげなこともおっしゃっておりました。また信玄公の遺品である2つの前立ても昔は近所の子供達の遊び道具になっていたこともあったようです。

 


2004年3月13日

NHKで放映の武田信玄公と当寺の関係、信玄公の死亡された所について各地に伝えられていますが、この寺は信玄公が野田城からの帰途、この駒場の山中で亡くなられましたので、当長岳寺に秘かにかつぎこまれ、こっそりと火葬にされたお寺です。境内に信玄公の灰塚供養の十三重の塔と遺品が残されています。
(看板資料より)

武田信玄公供養十三重之塔建立由来記
信玄公三河に進出。野田城を攻略中病を得て帰国途上この駒場の地に病没されました。その亡骸は土葬か火葬か謎とされておりましたが、昭和6年信州佐久市岩村田竜雲寺境内より信玄公の遺骨が発見され、その骨壷の中より袈裟環が出ましてその環に次のことが書かれていました。
大檀越信玄干時天正元年4月12日於駒場卒戦時為舎利納茲北高和尚項礼百拝云々。
このことより駒場に火葬はなきやと照会あり当地に古来より信玄公火葬塚と伝えられる処あり。昭和13年にこの塚より灰と骨紛を認めましたので供養塔建立の議もありましたが大東亜戦にて沙汰止みとなりました。
然るに本年信玄公没後400年迎うるにあたり、塚より骨紛を求め有志相はかりて、この塔に収め信玄公の徳をたたえ供養の塔を建立いたしました。
(看板資料より)


武田信玄公灰塚供養塔

信玄公は天正元年4月12日三河にて徳川氏と戦い、その帰途野田城攻略中、胸の病気重くなり、軍をまとめ三河より信濃に入りこの地、駒場(こまんば)に山中に没す。その時この地を守っていた馬場美濃守とはかり、信玄公の死を秘めて身代りを甲州に送り、当山裕教法印と共に、裏山にて火葬にふし、従運僧北高和尚、自坊に持ち帰られた。この塔は400年祭に火葬塚より灰を移し供養塔とした。
(看板資料より)

馬場美濃守の供養五輪塔


新田次郎の句碑

甲陽軍鑑によれば信玄公死去直前に次のような遺言を残したという。

 5年以上前から病気がは重大であると認識しており、判を書いた白紙を800枚余用意してあるので各地から書状が来たらこの紙を使うように。
 信玄が病気であるとはいえ存命であると聞けば信玄に領国を攻められぬ用心をするのが精一杯であろうから3年間は自分の死をかくして領国の安全を保つこと。
 自分の後継者は勝頼の息子信勝が16歳になったら家督を譲るのでそれまでは四郎勝頼に陣代を申しつける。しかし勝頼に武田累代の旗を持たせてはならない。孫子の旗、将軍地蔵の旗、八幡大菩薩の旗、いずれもすべて持たせてはならぬ。
 信勝が16歳で家督を継ぎ、初陣のおりには孫子の旗だけを残し、それ以外はすべて持って出陣せよ。
 勝頼は前のように大文字の小旗を持ち、差物、法華経の母衣は典厩(信豊)に譲ること。諏訪法性の甲は勝頼が着用し、その後信勝に譲ること。
 典厩信豊、穴山信君両人は信玄が頼りにしていることゆえ、四郎を屋形のようにもりたててほしい。7歳になった信勝を信玄のように重んじて16歳になったときに家督にすえてほしい。
 自分の葬儀は無用であり、遺体は3年後の4月12日に甲冑を着せて諏訪湖に沈めてほしい。
 勝頼は謙信輝虎と和議を結ぶように。謙信は男らしい武将であるから若い四郎を苦しめるようなことはしないであろう。まして和議を結んで頼るというのであれば決して約束を破ることはないであろう。信玄は大人気なく謙信に頼ることをしなかったためついに和議を結ぶことはなかったが、勝頼は必ず謙信に敬意を表して頼りにするのがよい。謙信はそのように評してよい人物である。
 信長が攻めてきた場合は難所に陣を張って持久戦に持ち込めば敵は大軍で遠路の戦いであるから五畿内、近江、伊勢の部隊は疲労して無謀な戦いを挑むであろうからその機会に一撃を加えて破れば敵は立ち直ることはできないであろう。家康は信玄が死んだと聞けば駿河に攻めてくるであろうから駿河に引き込んでから討ち取るように。小田原の北条氏政は強引に攻めて押しつぶすのに手間どることはないであろう。氏政は信玄が死んだと聞けば人質を捨てて裏切り敵となるであろうからその覚悟をしておくように。
 弟の逍遥軒信廉は今夜甲府に使いに行くといって4人を連れて出るふりをして従者たちを土屋右衛門尉のところに預け輿に逍遥軒を乗せ、信玄公は病気のため甲府に戻るといえば信玄と逍遥軒とを見分けることができる者はいないであろう。
 四郎はくれぐれも好戦的に振舞ってはならない。そして信長、家康の運の尽きることを待つことが重要である。もし敵が無理な戦いをしかけてきたら、わが領土に引き入れ必勝の決戦を挑むこと。そのときに皆が一体となって奮闘すれば、信長、家康、氏政の3人が連合してこようともこちらの勝利は間違いない。
 輝虎については他の者と謀って四郎を苦しめることはありえない。武勇においては信玄が死んだのちは謙信である。天下を手にした信長と武勇日本一の謙信、この両人の運が尽きるのを待つこと。四郎は万事についての思慮、判断、将来への見通しについて信玄の10倍も心するように。但し敵が侮って挑んできたら甲斐の領内まで引き入れて耐えぬいて合戦をするなら大勝利を得られるであろう。決して軽率な戦いをしてはならないと馬場美濃守、内藤修理、山県昌景に指示した。
(甲陽軍鑑より)


今回のメインの目的地がこの長岳寺でした。信玄火葬された場所としていつかは一度訪れたいと思っていました。駒場は信玄の死んだところであるとともに、長篠の合戦で破れた勝頼が彼を迎えに来た高坂弾正と会ったところでもあります。また信玄が死んだ後、父信虎もやはり伊那谷の高遠で死んでおり、親子ともに信州で亡くなっているんだなぁと思いました。
この日は到着した時間が早かったせいか残念ながら誰にも会うことができず詳しい話を聞くことができませんでした。本堂にあるらしい信玄の遺品もなんとかして見たかったのですが、どうしてもお寺の人に会うことができませんでした。境内には馬場信春の碑や、小説武田信玄の作者である新田次郎氏の碑もありました。


龍雲寺
信玄塚
恵林寺
馬場美濃守信房の墓
自元寺
馬場美濃守討死之地
馬場美濃守信房之碑(馬場美濃守信房の墓、同彦五郎勝行の墓) 
福田寺
橋詰殿戦場
馬場塚
馬場美濃守信有墓所

 

 
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