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山梨県甲州市

恵林寺

2017年04月08日

武田信玄の墓

不動明王

信玄公祭りに行く前に朝一番で立ち寄りました。
この日は不動明王の近くまで立ち入ることができました。初めてのことです。

 



2013年09月21日

乾徳山恵林禅寺の沿革
当山は臨済宗妙心寺派。往古は鎌倉円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。草創は鎌倉時代末期の元徳2(1330)年当時甲斐牧ノ庄と称した当地地頭職二階堂出羽守貞藤が七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。
越えて戦国時代甲斐国主武田信玄の尊崇を受けた快川国師(紹喜)の入山で寺勢を高め、永禄7(1564)年信玄は自らの手で寺領寄進と共に当山を菩提寺と定める。
天正4(1576)年4月武田勝頼は父信玄の3年の秘喪をとき盛大な葬儀を厳修する。同10(1582)年3月勝頼は時勢に抗せず天目山下に自刃。甲斐武田氏は滅亡する。
同4月3日織田信長の兵火に遭い当山は諸堂宇を灰燼に帰する中で、快川国師は「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と遺渇、従容として火定する。
本能寺の変後、徳川家康の手により旧観に復し、また徳川五代将軍綱吉時代甲斐国主となった柳沢美濃守吉保、同甲斐守吉里父子の外護で寺運は発展。吉保夫妻の菩提寺ともなる。庭園は鎌倉時代の作庭で国の史跡名勝に指定されており、甲府八景「恵林晩鐘」に詠まれている。
(看板資料より)


重要文化財 恵林寺四脚門

丹塗りの門であることから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、桧皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。
(看板資料より)


山梨県指定文化財 恵林寺三門附棟札一枚

構造は、一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門、無相門、無願門の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木、板肘木、木鼻などに見られる渦巻状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。
(看板資料より)


天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場

天正10(1582)年4月3日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門に集め火をつけた。碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあり、遺骨が埋葬されている。
(看板資料より)


開山堂

信玄と父信虎
武田家は新羅三郎義光の子武田冠者義清の後胤と云われ世々甲斐の守護に補任された甲斐源氏中の名流であるが、必ずしも国中に絶対的な権力を有していた訳ではなかった。守護大名から戦国大名に成長する過程にあって信玄の父信虎は八面六臂の活躍をする。国内の離反を苦斗しながらも制圧し今川氏、北條氏などの隣接諸侯の圧力をよくはねかえし、信州へも進攻の旗をすすめて領国の統一を完成へ近ずけたのである。しかるに天文10(1541)年、晴信(信玄)は父を駿河に追放した。此処に陳列した「塩山向岳禅庵小年代記」や「妙法寺記」などには、信虎が余り悪行をするので晴信がそうしたと云い国中の人民が皆喜んだと云う意味のことが書いてある。権力の確立に急だった信虎の反面を表すものであろうが、ときにはしのんで親をも追わねばならぬ戦国大名と云う信玄の苛烈な境涯を示しているものと考えられる。
(説明文より)

信玄の人となり
甲斐の黒駒も信濃の望月の駒も古くから歌にもよまれて有名であった。武田軍の騎馬武者の進撃がいたる所で恐れられたのも又当然と云えようか。しかも山国の人々はよく困苦缺乏にたえ殆毎年にわたる戦乱の経験は彼らを無比の精兵にきたえあげた。
しかし信玄にとってよい条件ばかりがあった訳ではない。武田の家臣団の編成はかなり複雑であり、武田家が権力を確立しようとする過程での国内諸豪との色々ないきさつもある。又、多くの家臣が農村にあるおくれた段階にあり土着割拠性が強かった。彼らをよく統成し、辺境の山国を本拠として軍団を形成した信玄は武略や政治的手腕はもとより人間的にもよほど非凡な器量にめぐまれていたのであろう。
そしてそれを形成し裏づける教養も又高かった。此処に陳列した詩巻や自筆の書状の筆跡などからもその面影がしのばれる。
信玄が多くの社寺を崇拝し造営、保護につとめたことは、あまねく知られている。もとより之には民心の収攬と云う戦国大名としての政策もあったであろうが、自信の信仰も又深かった。特に臨済禅の高僧には厚く帰依し修養は卓抜したものがあったことは伝えられる種々の言動からも知ることができる。
(説明文より)


大庫裡

武田晴信入道信玄
応仁の乱以降の戦国時代の舞台に登場する武将英傑は少なくない。ひとたび風雲に乗ずると天下を取る実力第一の時代であった。かかる時に霊峰富士を仰ぎ見る山紫水明の地、甲州を拠点に大永元年3月石水寺城に生まれた武田晴信入道信玄は清和源氏新羅三郎義光の流れをくむものである。信玄の変転きわまる乱世史上53年の生涯は稀代の軍略家、精妙な外交家、包容力にとむ民政経世家のそれであり、強大な統率力はこれ富士の威容にも比すべきものがある。
8才のころから関山派長谷寺禅僧岐秀に学問を習い、岐秀が北畠親房の庭訓往来を示すと信玄は3日を以って読破暗記した。好んで六韜三略・孫子・呉子の兵法を学び、天性豪胆利発であった。天文5年3月、16歳で元服した。後年信玄が師と仰いだのは恵林禅寺の快川国師で、勝頼が天目山に敗れて武田家亡ぶや、信長は佐々木承禎のことで大いに怒り、天正10年兵を恵林寺に攻め、快川一山の僧徒を山門に追って火を放ち、猛炎その袖に移るや、有名な「心頭を滅却すれば火自ら涼し」と従容として喝を唱え焚死して武田に殉じ大往生。万丈の大気焔を吐いた。信玄の信濃への出陣は信濃守に任ぜられた責任上その守護職の務であるため、上杉謙信と川中島に五回のの大戦を行い信濃全土を掌中に収め、上野、飛騨、越中を牽制し、三河、遠江に入る要路を開き、北條、今川を堅め、近江の浅井、越前の朝倉及び本願寺と結び、将軍義昭に取り入り信長の侵略に備えた。元亀3年10月、2万8千の大軍を率いて遠江に入り徳川の城を次々に攻略し、12月23日、三方ヶ原に進軍、徳川、織田連合軍を打ち破り、天正元年三河の野田城を陥れて大いに兵威が振るった。剣禅一如の妙諦を悟得することのできた信玄が「疾如風・徐如林・侵如火・不動如山」の大旗をかかげ、阿修羅・不動尊王の如く四隣を斬り靡かせ威風堂々天下平定の大望成らんとする時、天正元年2月、やや不例気味の信玄は野田城開城前に一夜笛の音に誘われて堀端に近寄った時に城中より狙撃を受けて負傷したと云う。これにより病状悪化し全軍帰国命令を発した。その途中、信州駒場で悲憤の涙を呑んで薨じた。信玄は信を内に置き常に国外に進出した。「人は城、人は石垣、人は掘、なさけは見方、あだは敵なり」の国風を詠じて防備強国を進言した者に答えたと云う。
贈位 従三位
(説明文より)


うぐいす廊下

武田信玄
信玄は俗名を晴信といい清和源氏の新羅三郎義光の子孫信虎の嫡子として大永元年11月3日石水寺城に生まれた。幼少より禅僧に学び、後に快川を師と仰いだ。又好んで六韜三略、孫子、呉子等の兵法を学んだ。16才の時元服して大膳大夫、従五位下に叙せられた。甲信両国の太守として早くから天下制覇の大志を抱き川中島5度の大合戦の後、北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結び足利義昭の意を受けて元亀3年3万の大軍を率いて上洛の途につき三方ヶ原に織田、徳川の連合軍を破り更に三河の野田城を陥れて宿願成らんとした時、病を得て帰国の途中信州駒場で死去した。
信玄は稀にみる軍略家であり又外交家、民政家でもあった。仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位を受けた。
(看板資料より)


武田不動尊

乾徳山恵林寺の霊殿に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。天正10年の織田軍の恵林寺来攻には幸に火を免れた。
(看板資料より)


武田晴信の墓

山梨県指定史跡 武田晴信の墓
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元(1521)年の出生。天文10(1541)年、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀4(1573)年4月12日、病のため信州、駒場の陣中で53歳で没した。その10年前、永禄7(1564)年12月1日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、3年間の秘喪の後、天正4(1576)年4月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公事法語」(県指定文化財)に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。ここに全高349.6cmの五輪塔一基、全高369.6cmの宝篋印塔一基が建立されている。この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文12(1672)年4月12日信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫592人の浄財を得て建立したものであることが判る。
(看板資料より)


武田家臣供養塔

武田家臣供養塔配置図


柳沢吉保夫妻の墓

柳沢吉保夫妻の墓
江戸時代中期、徳川5代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府15万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保9(1724)年3月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山15万石に転出が決まり、このため同年4月12日恵林寺へ改葬されたものである。
柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史料が現存している。このため山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。
(看板資料より)


開基二階堂道蘊の供養塔

1330年屋敷を寄進せられ恵林寺となる。(看板資料より)


史蹟名勝 恵林寺庭園

国指定になる史蹟名勝恵林寺庭園は鎌倉時代後期の元徳2(1330)年、時の名僧夢窓国師により当山が開創せられし時国師自らの手を染めし禅林の名園なり。国師この10年の後京師にて天龍寺西芳寺庭園を築造せられ共に国師作造の代表庭園として著名なり。本庭園は本来禅の修業道場にして濃くし築庭の深渕なる奥秩父連峰を借景となす遠望を秘め森羅万象を包含せし意図瀝然たり庭内に臥竜松など十景を映じ左右に雄瀑布、雌瀑布を配し、上段を枯山水、下段は心字を中心となす池泉回廊式なり。江戸時代甲斐国主柳沢美濃守吉保は勅許にて甲斐八景を遊び外山前中納言光顕卿をして当庭園を以下の如く嘆詠せり。
静かなる夕べの鐘のこえききて見れば心の池もにごらず。
(看板資料より)


武田信虎公の墓

武田信虎公は甲斐守護信縄公ノ嫡男ニシテ当山中興開基大檀越信玄公ノ御父ナリ永正4年家ヲ嗣グヤ国乱ヲ戦定シ甲府ヲ開創シ嫡男信玄ノ大経綸ノ緒ヲ開キシ名将ナリ駿河退隠ノ後モ京畿ニ遊説シテ今嫡ノ為ニ策セルモ天正2年3月5日信州高遠城ニ病没セラル享年81同4年4月16日令孫勝頼公先考信玄ノ葬禮ヲ當山ニ執行スルヤ併セテ祖父信虎公追福ノ塔ヲ造立セラル此地モト信縄公開基ノ當山塔頭長興院址ナリ然ルニ壬午4月3日織田ノ兵焚ニ一山焼亡シ両公ノ塔亦被火セリ越テ寛文12年信玄公百年諱ニ荊山大和尚信玄公ノ塔ヲ再建セルモ信虎公塔ニハ至ラザリキ今茲信玄公生誕450年ノ機ヲトシ
當山古記録ニ基キ茲ニ此塔ヲ再建スト六爾
(石碑記載文章より)

 



2006年03月12日

重要文化財 恵林寺四脚門

丹塗りの門であることから通称「赤門」とも呼ばれている。切妻造り、桧皮葺きで、本柱、控柱ともに円柱を用い、柱には粽形が付けられ、柱下には石造礎盤が置かれている。中通しの本柱は控柱より太く大きく、これを桁行に通した頭貫で繋ぎ、その上に台輪を架し大斗・枠・肘木・実肘木を組み、軒先を海老虹梁で繋いでいる。このような極めて簡単な構架ではあるが、全体に木割りが大きく、その意匠は雄大であり、桃山期の豪放な気風をよく現わしている。
(看板資料より)


山梨県指定文化財 恵林寺三門附棟札一枚

構造は、一門一戸、楼門形式、この門を「三門」と称するのは、仏殿前に位置し仏殿を法空・涅槃に擬し、そこへ入る端緒たる三解脱すなわち空門、無相門、無願門の意による三解脱門の略で、快川国師が織田軍の兵火で焼討ちを受けた折「安禅必ずしも山水を須いず、心頭滅却すれば火自ら涼し」と唱えて火定した場所に建つ。
四本の隅通し柱は、階下が角柱造り、階上部分を円柱造りとする技巧を凝らし、実肘木、板肘木、木鼻などに見られる渦巻状の絵様は室町末期から桃山期にかけての名作技法である。小規模ながら総体的に溢れる重厚・荘厳さは、同時代の建造物の中でも逸品とされている。
(看板資料より)


観桜の詠歌 大僧正信玄
誘引ずばくやしから満しさくら花
実こんころは雪のふるてら

桜花らんまんのころ快川国師の招きで
恵林寺を訪れた武田信玄が、みごとに咲き競う三門両袖の桜に見ほれて詠んだもの。信玄直筆の詠歌色紙は信玄公宝物館に保存されている。
(看板資料より)


天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場

天正10(1582)年4月3日、恵林寺は織田信長に全山焼かれる。近江の佐々木承禎らを秘かにかくまい逃れさせた快川国師に信長は怒り国師はじめ百余人の僧侶らを三門に集め火をつけた。碑には「天正亡諸大和尚諸位禅師安骨場」とあり、遺骨が埋葬されている。
(看板資料より)


開山堂

恵林寺境内案内図

うぐいす廊下

武田信玄
信玄は俗名を晴信といい清和源氏の新羅三郎義光の子孫信虎の嫡子として大永元年11月3日石水寺城に生まれた。幼少より禅僧に学び、後に快川を師と仰いだ。又好んで六韜三略、孫子、呉子等の兵法を学んだ。16才の時元服して大膳大夫、従五位下に叙せられた。甲信両国の太守として早くから天下制覇の大志を抱き川中島5度の大合戦の後、北条と和し、越前の朝倉、近江の浅井や本願寺と結び足利義昭の意を受けて元亀3年3万の大軍を率いて上洛の途につき三方ヶ原に織田、徳川の連合軍を破り更に三河の野田城を陥れて宿願成らんとした時、病を得て帰国の途中信州駒場で死去した。
信玄は稀にみる軍略家であり又外交家、民政家でもあった。仏教にも深く帰依し徳栄軒と号し大僧正の位を受けた。
(看板資料より)


武田不動尊

乾徳山恵林寺の霊殿に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。天正10年の織田軍の恵林寺来攻には幸に火を免れた。
(看板資料より)


開基二階堂道蘊の供養塔

1330年屋敷を寄進せられ恵林寺となる。


史蹟名勝 恵林寺庭園

国指定になる史蹟名勝恵林寺庭園は鎌倉時代後期の元徳2(1330)年、時の名僧夢窓国師により当山が開創せられし時国師自らの手を染めし禅林の名園なり。国師この10年の後京師にて天龍寺西芳寺庭園を築造せられ共に国師作造の代表庭園として著名なり。本庭園は本来禅の修業道場にして濃くし築庭の深渕なる奥秩父連峰を借景となす遠望を秘め森羅万象を包含せし意図瀝然たり庭内に臥竜松など十景を映じ左右に雄瀑布、雌瀑布を配し、上段を枯山水、下段は心字を中心となす池泉回廊式なり。江戸時代甲斐国主柳沢美濃守吉保は勅許にて甲斐八景を遊び外山前中納言光顕卿をして当庭園を以下の如く嘆詠せり。
静かなる夕べの鐘のこえききて見れば心の池もにごらず。
(看板資料より)


信玄と父信虎
武田家は新羅三郎義光の子武田冠者義清の後胤と云われ世々甲斐の守護に補任された甲斐源氏中の名流であるが、必ずしも国中に絶対的な権力を有していた訳ではなかった。守護大名から戦国大名に成長する過程にあって信玄の父信虎は八面六臂の活躍をする。国内の離反を苦斗しながらも制圧し今川氏、北條氏などの隣接諸侯の圧力をよくはねかえし、信州へも進攻の旗をすすめて領国の統一を完成へ近ずけたのである。しかるに天文10(1541)年、晴信(信玄)は父を駿河に追放した。此処に陳列した「塩山向岳禅庵小年代記」や「妙法寺記」などには、信虎が余り悪行をするので晴信がそうしたと云い国中の人民が皆喜んだと云う意味のことが書いてある。権力の確立に急だった信虎の反面を表すものであろうが、ときにはしのんで親をも追わねばならぬ戦国大名と云う信玄の苛烈な境涯を示しているものと考えられる。
(説明文より)

信玄の人となり
甲斐の黒駒も信濃の望月の駒も古くから歌にもよまれて有名であった。武田軍の騎馬武者の進撃がいたる所で恐れられたのも又当然と云えようか。しかも山国の人々はよく困苦缺乏にたえ殆毎年にわたる戦乱の経験は彼らを無比の精兵にきたえあげた。
しかし信玄にとってよい条件ばかりがあった訳ではない。武田の家臣団の編成はかなり複雑であり、武田家が権力を確立しようとする過程での国内諸豪との色々ないきさつもある。又、多くの家臣が農村にあるおくれた段階にあり土着割拠性が強かった。彼らをよく統成し、辺境の山国を本拠として軍団を形成した信玄は武略や政治的手腕はもとより人間的にもよほど非凡な器量にめぐまれていたのであろう。
そしてそれを形成し裏づける教養も又高かった。此処に陳列した詩巻や自筆の書状の筆跡などからもその面影がしのばれる。
信玄が多くの社寺を崇拝し造営、保護につとめたことは、あまねく知られている。もとより之には民心の収攬と云う戦国大名としての政策もあったであろうが、自信の信仰も又深かった。特に臨済禅の高僧には厚く帰依し修養は卓抜したものがあったことは伝えられる種々の言動からも知ることができる。
(説明文より)

武田晴信入道信玄
応仁の乱以降の戦国時代の舞台に登場する武将英傑は少なくない。ひとたび風雲に乗ずると天下を取る実力第一の時代であった。かかる時に霊峰富士を仰ぎ見る山紫水明の地、甲州を拠点に大永元年3月石水寺城に生まれた武田晴信入道信玄は清和源氏新羅三郎義光の流れをくむものである。信玄の変転きわまる乱世史上53年の生涯は稀代の軍略家、精妙な外交家、包容力にとむ民政経世家のそれであり、強大な統率力はこれ富士の威容にも比すべきものがある。
8才のころから関山派長谷寺禅僧岐秀に学問を習い、岐秀が北畠親房の庭訓往来を示すと信玄は3日を以って読破暗記した。好んで六韜三略・孫子・呉子の兵法を学び、天性豪胆利発であった。天文5年3月、16歳で元服した。後年信玄が師と仰いだのは恵林禅寺の快川国師で、勝頼が天目山に敗れて武田家亡ぶや、信長は佐々木承禎のことで大いに怒り、天正10年兵を恵林寺に攻め、快川一山の僧徒を山門に追って火を放ち、猛炎その袖に移るや、有名な「心頭を滅却すれば火自ら涼し」と従容として喝を唱え焚死して武田に殉じ大往生。万丈の大気焔を吐いた。信玄の信濃への出陣は信濃守に任ぜられた責任上その守護職の務であるため、上杉謙信と川中島に五回のの大戦を行い信濃全土を掌中に収め、上野、飛騨、越中を牽制し、三河、遠江に入る要路を開き、北條、今川を堅め、近江の浅井、越前の朝倉及び本願寺と結び、将軍義昭に取り入り信長の侵略に備えた。元亀3年10月、2万8千の大軍を率いて遠江に入り徳川の城を次々に攻略し、12月23日、三方ヶ原に進軍、徳川、織田連合軍を打ち破り、天正元年三河の野田城を陥れて大いに兵威が振るった。剣禅一如の妙諦を悟得することのできた信玄が「疾如風・徐如林・侵如火・不動如山」の大旗をかかげ、阿修羅・不動尊王の如く四隣を斬り靡かせ威風堂々天下平定の大望成らんとする時、天正元年2月、やや不例気味の信玄は野田城開城前に一夜笛の音に誘われて堀端に近寄った時に城中より狙撃を受けて負傷したと云う。これにより病状悪化し全軍帰国命令を発した。その途中、信州駒場で悲憤の涙を呑んで薨じた。信玄は信を内に置き常に国外に進出した。「人は城、人は石垣、人は掘、なさけは見方、あだは敵なり」の国風を詠じて防備強国を進言した者に答えたと云う。
贈位 従三位
(説明文より)


武田家臣供養塔

武田家臣供養塔配置図

今回の一番の目的がこの武田家臣団供養塔でした。今まで何度も恵林寺を訪れているにもかかわらず、武田晴信の墓見学後いつも素通りしていた所でした。その後、各地にある武田家の家臣達にゆかりのある史跡を訪問した際に彼らの墓が恵林寺にもあるとの記録が多数あったのです。そして今回は特に意識して見学することにしていました。ところが上の写真のように立ち入ることはできないし、どれが誰の供養塔なのか確認することができなかったので大庫裡の入口のところで聞いてみたところ、武田家臣供養塔の配置図をコピーしていただくことができました。


武田信虎公の墓

武田信虎公は甲斐守護信縄公ノ嫡男ニシテ当山中興開基大檀越信玄公ノ御父ナリ永正4年家ヲ嗣グヤ国乱ヲ戦定シ甲府ヲ開創シ嫡男信玄ノ大経綸ノ緒ヲ開キシ名将ナリ駿河退隠ノ後モ京畿ニ遊説シテ今嫡ノ為ニ策セルモ天正2年3月5日信州高遠城ニ病没セラル享年81同4年4月16日令孫勝頼公先考信玄ノ葬禮ヲ當山ニ執行スルヤ併セテ祖父信虎公追福ノ塔ヲ造立セラル此地モト信縄公開基ノ當山塔頭長興院址ナリ然ルニ壬午4月3日織田ノ兵焚ニ一山焼亡シ両公ノ塔亦被火セリ越テ寛文12年信玄公百年諱ニ荊山大和尚信玄公ノ塔ヲ再建セルモ信虎公塔ニハ至ラザリキ今茲信玄公生誕450年ノ機ヲトシ
當山古記録ニ基キ茲ニ此塔ヲ再建スト六爾
(石碑記載文章より)


大小切騒動と殉難の碑

大小切騒動とは、武田信玄以来甲州だけで用いられていた大小切税法を、明治新政府が税制統一のため廃止しようとしたことが発端で、これに反対する山梨・八代・巨摩三郡の農民が反対して起こした騒動である。
大小切税法とは、農民の貢租負担が実質的に軽減される措置で、年貢米のうち、3分の1を当時1両に5石の相場だったのを、4石1斗4升替として金納させ、残り全部を籾で納めさせた。徳川幕府も改革を数回試みたが、その都度農民の激しい抵抗により実現できなかった税法である。
明治5年8月8日、大小切税法廃止の布告が出されると、3郡の農民による反対運動が起こり、22日までに波状的に嘆願書を県に提出し、願書を受け取らせて気勢をあげた。県はこれ以上農民を怒らせないようになだめたり、説得したが耳をかさず、騒ぎは日に日に大きくなり、政府に出兵を要請した。
この出兵の動きで山梨・八代郡下の農民の反対は更に激しくなり、8月23日、東郡の万力・栗原両筋97ヶ村、約6千人の農民が小屋敷村の長百姓小沢留兵衛、松本村の名主島田富十郎、隼村の長百姓倉田利作たちの指揮のもと、県に強く抗議するために甲府に押し寄せてきた。
県側は、農民の要求を一時的に「願ノ趣キ聞届候間書面差出スベキコト」と障子に大書して示した。これで農民たちは目的を達したものと信じ、代表者が願書を提出、県は「願意聞届候事」の黒印状を渡し、一応騒ぎも県の力で押さえこまれた。
9月3日、権令は軍隊の警備するなかで、騒動に参加した村々の代表を恵林寺に集め、信玄公の墓前で世の中が変わったこと、今後このような騒ぎを起こさないこと、首謀者は自首して出ることなどを述べて、さきの聞届は一時の便法であったとして23日の約束を反古にして、黒印状を没収した。これにより大小切税法は、新政府によって完全に廃止されたのである。
この騒ぎで処罰されたもの3772名におよび、小屋敷村小沢留兵衛、松本村島田富十郎の両名は、11月10日に指揮者としての責を問われ死刑となった。
明治22年、明治憲法発布大赦により両名ともその罪が許され、同25年4月、関係者、遺族の手により両名を義民と称える「殉難の碑」が建立されたのである。
(看板資料より)


始祖 秋山太郎光朝公之供養塔

秋山氏の始祖光朝公は清和天皇6代の後胤、甲斐源氏の祖新羅三郎義光の曾孫加賀美次郎遠光の嫡男で巨摩郡秋山村に拠って秋山太郎と号した。
その子孫は武田氏に仕えて世々重きをなした。
(供養塔記載文章より)

 



2003年04月13日

山梨県高根沢町(清里高原)に用事があったので出かけてきましたが、帰りに恵林寺に寄ったところ昨日は武田信玄の命日で恵林寺信玄公忌が行われたそうで今日は武田晴信(信玄)の墓を参拝することができました。

武田晴信の墓

山梨県指定史跡 武田晴信の墓
武田晴信(信玄)は武田信虎の長男で、大永元(1521)年の出生。天文10(1541)年、21歳で家督を次ぎ甲斐国主となる。性格武勇沈着、こよなく家臣団・領民を愛する戦国時代の代表的な武将であった。
元亀4(1573)年4月12日、病のため信州、駒場の陣中で53歳で没した。その10年前、永禄7(1564)年12月1日、時の恵林寺住持快川和尚に宛てた「恵林寺領之事」の証文の中で、信玄自ら恵林寺を菩提寺と定めていたため、3年間の秘喪の後、天正4(1576)年4月に勝頼が施主となって本葬が執行された。「恵林寺殿機山玄公」と諡名される。このときの仏事一切について、快川国師が「天正玄公事法語」(県指定文化財)に記録している。
現在の墓は信玄霊廟「明王殿」裏手に位置し、聖域と称される。面積184.8平方メートル。ここに全高349.6cmの五輪塔一基、全高369.6cmの宝篋印塔一基が建立されている。この宝篋印塔の反花台座(基礎)裏側の銘文と、寺に保存されている「恵林寺奉加帳」(市指定文化財)により、五輪塔・宝篋印塔ともに寛文12(1672)年4月12日信玄公百回忌が厳修された際に、恵林寺住持荊山玄紹が武田家の遠孫・旧臣子孫592人の浄財を得て建立したものであることが判る。
(看板資料より)


清里からの帰路、塩山の恵林寺に寄ることにしました。中央高速勝沼インターチェンジでおりて北に向かい到着。正面は既に車でいっぱいで駐車できず、しかたなく放光寺に向かいました。途中恵林寺の参道にはたくさんの出店ができてるのが見え、更に大きな花火の音がしてきました。恵林寺は今回で4、5回目ですがこんなににぎやかなのは初めてです。放光寺の方向から恵林寺の裏側にある駐車場に行くことができます。ということで恵林寺の裏から入りました。
清里高原はまだ桜が咲く気配がありませんでしたが塩山はちょうど桜が満開でいいときに来ることができました。多分来週あたりには高遠がちょうど満開になるのではないでしょうか。
更に今日はなんと武田信玄の墓を見ることができたのです。後で分かったことですが昨日は武田信玄公の命日であり、恵林寺信玄公忌が行われ、昨日と今日は信玄公の墓を参拝することができたのです。ちなみに昨日の恵林寺信玄公忌はあいにくの雨のため室内で行われたそうです。

拝観料300円支払って入館


入口には大きな湯釜があります。


うぐいす廊下

うぐいす廊下は静かに歩くように!との注意書きがありますが、これはどういう意味なのでしょうか?もちろん足を一歩進めるごとにキュッキュッと音がします。多分ドタバタと歩かないようにということでしょうか?なんで恵林寺にこんなものがあるのかは説明がないので良くわかりませんが中には檀家?の位牌?や仏壇?のようなものがいくつか置いてありました。この先に武田不動尊があります。


武田不動尊
乾徳山恵林寺の霊殿に安置されている不動尊像で武田不動尊と呼ばれている。信玄が佛工康清を召し対面して彫刻させたもので、螺髪結跏して剣索をとり不動明王の形を表すが信玄の真像と伝えられる。天正10年の織田軍の恵林寺来攻には幸に火を免れた。
(看板資料より)


柳沢吉保夫妻の墓

柳沢吉保夫妻の墓
江戸時代中期、徳川5代将軍綱吉の側近で大老格の地位にあった甲府15万石藩主柳沢美濃守吉保と正室定子の墓で、はじめは甲府岩窪の竜華山永慶寺と真光院に建立されていたものであるが、享保9(1724)年3月吉保嫡男甲斐守吉里のとき、奈良の大和郡山15万石に転出が決まり、このため同年4月12日恵林寺へ改葬されたものである。
柳沢吉保は天下泰平の世に異例の出世をしており、甲斐国主として優れた業績を残している。また病弱であった正室定子を常にいたわり、市内に残る文献史料の中にもそれをうかがい知れる史料が現存している。このため山梨県の歴史の中でも、武田信玄に次ぐ人物として知らしめる必要があるので、市指定の文化財とした。
(看板資料より)


奥の庭園のしだれ桜


心頭滅却すれば。。。の三門


桜が満開、出店多数出店、武田24将の旗が点在し、今日はいつもと違う恵林寺でした。

 



2000年4月15日

塩山の恵林寺に立ち寄る。
ここには、「ほうとう」を食べに来ましたがいまいちでした。

「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」で有名な三門

恵林寺奥の庭園

少々物足りなかったので帰りに談合坂S.Aにて「キムチほうとう」を食べました。

 



1999年09月05日

この恵林寺は武田信玄の葬儀が行なわれたところであり、信長が甲斐に攻め込んだときに快川紹喜が「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と言って焼身自殺をしたところとして有名。風林火山の旗もあるし、宝物館には古文書等の資料がたくさん保存されていた。武田信玄の墓もあるし、柳沢吉保の墓もあった。お土産屋も充実しているし、ほうとうを食べられる店もある。ここに来れば武田信玄に関しては何でもそろっている。

乾徳山恵林寺
臨済宗妙心寺派の名刹で、元徳2(1330)年の創建。往古は、鎌倉、円覚寺派で関東準十刹の寺格を有す。元徳2年当時甲斐牧ノ庄と称した当地の領主である二階堂出羽守が、七朝帝師と尊称された夢窓国師を招き自邸を禅院としたのに始まる。戦国時代武田信玄の尊崇を受けた快川国師の入山で寺勢を高め、永禄7(1564)年信玄自ら寺領寄進し当山を菩提寺と定めた。境内には本堂、開山堂、赤門(重文)、三重塔などがならび巨刹らしい雰囲気である。三門に掲げられた快川国師の「安禅不必須山水、滅却心頭火自涼」は有名。また境内の信玄公宝物館には、武田氏関係の貴重な資料を常時公開。
(看板資料より)

三門

 



1984年03月29日

恵林寺三門


山門と書かず三門と書くのは、禅宗の寺でこの位置にある門を三解脱門と呼び、それを略して三門と呼ぶからである。草創当時の規模はもっと大きかったが、織田信長の手で焼かれ、現在のものはごく小規模である。
信長が焼き討ちのとき、三門楼上で百余人の信徒とともに、火定(かじょう)に入った快川国師が遺偈した「安禅は必ずしも山水を須いず…」という物語は有名である。
(パンフレットより)

信玄の菩提寺にふさわしい威厳をもつ乾徳山恵林寺の総門をくぐって杉並木の参道をすすむと恵林寺赤門に出る。別に四脚門とも呼ばれる国の重要文化財である。元徳2(1330)年、二階堂堂蘊が南北朝時代の名僧夢想国師を迎えて深く帰依し、寺は隆盛を極めた。天正10(1582)年武田滅亡の直後、織田信長の命令で伽藍は焼き討ちされたが、この赤門だけは厄をのがれている。
(パンフレットより)


信玄塚
信玄火葬塚
福田寺
長岳寺

 

 
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