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愛知県新城市

長篠城

2013年07月06日

 
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長篠城は豊川の上流、寒狭川(滝川)と大野川(三輪川)とが合流する地点の断崖絶壁の上にある。城址は現在愛知県南設楽郡鳳来町字長篠に存し東西およそ327メートル、南北約254メートルある。
城の機構は「長篠合戦図屏風」や、「長篠城古図」などを見ても分かるように、櫓が唯一のっているだけで、屋根は瓦と板とが交じり、塀はみな置土で藁葺きになっている。極めて簡素な造りであったらしい。まず、野牛曲輪が両川合流の絶壁上に位し、そこに野牛門があり、それに細長い橋を架けている。そこを度合と呼びその西北に本丸があり、その東北に二の丸(帯曲輪)があり、またその東北に三の丸(巴曲輪)があった。その他に瓢曲輪があるし、又本丸の西に弾正曲輪というのがあった。それから家老屋敷があり、西北に大手、東北に搦手がある。
武田軍の攻撃は5月11日から開始された。この日は南手の度合(寒狭川と大野川との合流点)にある野牛門(南の門)に押し寄せ門の脇に竹把で仕寄をつけ、これを攻めた。しかし城兵は直ちに軌って出て反撃を加えたため、武田勢は竹把を焼いて退却している。
12日から13日にかけて激戦が展開されたが13日の夜の瓢曲輪の戦いが最も烈しく城兵もよく防いだけれど、障壁がやぶれたため、城主の奥平信昌は守兵を本丸に引き上げさせている。瓢曲輪は遂に武田勢の占領するところとなった。
14日は武田軍の総攻撃が行われ、大手口に迫り、兵糧蔵を攻め落としたため、城内の糧食もあと数日しか支えられなくなってきた。元来狭い区域に築かれた山城のことだから、少し日数をかけて包囲すれば忽ち糧食に困窮するわけである。
(日本の戦史・三方原長篠の役より)

長篠城本丸跡

磔に散る 烈士鳥居強右衛門
5月14日、武田軍は総攻撃をしかけた。城中の食料はあと4,5日分だけ。その夜、鳥居強右衛門は、徳川家康へ救援を依頼する使者として長篠城を抜け出た。梅雨の時、増水の寒狭川へ降りて豊川を下ること4Km。
15日朝かんぼう山で脱出成功の狼煙を上げ、岡崎へ走った(長篠-岡崎は50Km)。岡崎には援軍の織田信長も到着していた。家康、そして信長の前で城の危急を訴え周りの人も感動した。
使命を果たして休養を進められたが、彼はすぐ引き返した。
16日の朝、再びかんぼう山で「援軍きたる」の狼煙3発。そして長篠城の対岸まで来たが厳重に警戒する武田軍に捕らえられた。
武田軍から「援軍は来ない城を開け、武田軍は厚くもてなす」と呼ばるよう説得されて長篠城二の丸近くに立った(この時城は本丸と二の丸だけ残る)。
しかし「援軍は来る。この眼で見てきた、あと2,3日、堅固に守れ」と叫んだので、対岸の篠場野の地で磔にされた。
強右衛門その時36才。18日、織田、徳川3万8千の軍は設楽原に到着して陣を敷いた。
(看板資料より)

本丸にある土塁

内堀跡

野牛曲輪跡

度合

巴曲輪跡

瓢曲輪跡

弾正郭跡

家老屋敷跡

糧庫跡


久邇宮良子女王「御手植の松」

この黒松は、久邇宮良子女王殿下がが大正7(1918)年3月17日、父邦彦王、母俔子妃の3人で設楽原決戦場視察の後、長篠城址を視察し、御台臨記念として植えた松である。当時の記録によれば、3人は城址で桑園になっていた本丸に散在する焼き米を拾い、鳥居強右衛門が脱出した場所に立ち往時を追懐していたとある。良子女王殿下の服装は、この時のお召列車の車掌であった浦野金蔵氏の記録によると「矢がすりの和服」であったという。
(看板資料より)


さかさ桑

長篠の戦の落武者が、寒狭川の中流にある小松集落にさしかかって、民家の庭に杖をつきさした。土地の者はその強力を見てただものではないとおもい、その杖に手をふれなかった。
落武者は武田勝頼であった。杖からは桑の芽が出たが下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名づけられた。
近年それが枯れたので、土地の人がおしみ新しいのをこの土地に植えた。
(看板資料より) 


飯田線に破壊されてしまった長篠城



2006年05月05日

長篠城には過去何度か来たことがありますが、今回は「長篠合戦のぼりまつり」が行なわれ、そこで火縄銃による実演も行なわれるということでしたので寄ることにしました。今回の史跡めぐりの一番の見所です。当日長篠城で配られていたパンフレットに長篠の戦い史跡めぐりコースというものが紹介されていて、それを見ると実は今までは本丸周辺しか見学していなかったことが分かりました。のぼりまつりのは本丸で行なわれていましたが上の写真のように大きな旗が立てられていて風が吹くたびにきしむ音が印象的でした。織田・徳川側の武将より武田側の武将の旗の方が多く、このお祭りも武田贔屓のような気がしました。

長篠城縄張概図

5月21日の夜明け、徳川軍の酒井忠次は東三河の将士を率い、長篠城監視のために残留した武田軍の5つの砦を奇襲した。この時、設楽原方面に進出していた武田勝頼は、背後の鳶が巣方面の火の手と銃声に驚き本隊に戦闘開始を指令した。
5つの砦を守る武田信実以下は激しく戦ったが指揮官のほとんどが討ち取られ残兵は「長走り」の瀬を渡って本隊に合流しようとした。その前夜、酒井忠次たち将士は大雨の中を豊川渡河「船着山」の裏をまわり5つの砦の背後の山中に潜み夜明けを待っていたのである。
鳶が巣方面の戦い
(看板資料より)


長篠の戦い経過
1575(天正3)年5月

6・7日 武田勝頼、吉田城(豊橋市)に追って小ぜりあい。
8日 武田勝頼(1万5千)が長篠城(奥平貞昌5百)を囲み攻撃開始。
10日 大手門付近で戦闘、城兵が門外へ突出。
11日 豊川対岸の武田軍、筏で野牛郭を攻撃。城兵も多数死傷するが撃退。
12日 武田軍、本丸西隅に横穴を掘り侵入、城兵は逆襲して退ける。
13日 武田軍は瓢郭を攻撃。夜、瓢の兵は本丸に引き上げ。大手門方面に武田軍が建てた望楼を城兵が銃撃で破壊。
14日 武田軍の総攻撃を城兵が死守。鳥居強右衛門が奥平貞昌の命を受けて脱出。
15日 鳥居強右衛門が岡崎に到着し家康に言上。織田信長も岡崎に到着。
16日 鳥居強右衛門は武田軍に捕われ、城中へ援軍到来を告げて磔にされる。
18日 織田・徳川軍、設楽原に到着し、陣地を構築。
19日 武田軍は軍議。勝頼は諸将の諫言を容れず、設楽原の敵陣攻撃を決定。
20日 武田本隊は城の包囲を解き設楽原へ。徳川軍酒井隊が鳶が巣方面へ。
21日 設楽原で激突。勝頼は多くの将士を失い残兵に守られて敗走。

(長篠城址史跡保存館パンフレットより)


内堀

現在駐車場になっている帯郭址からJR飯田線の方に向って大きな内堀があります。本丸の規模の割りにはずいぶん大きな堀だと思います。

内堀


家老屋敷跡


鳥居強右衛門・呼びかけの所

家老屋敷跡のすぐ横に、上の写真のように電柱に「鳥居強右衛門・呼びかけの所」と書かれたところがありました。多分、鳥居強右衛門が武田軍に捕えられた後、城内に向って援軍の到来を呼びかけた所なのだと思います。鳥居強右衛門が城兵に向って呼びかけたのは豊川の対岸の磔死したところだと思っていたのですが、実はこんな所だったことを知りました。ここから長篠城址史跡保存館まではすぐ近くのところですので、長篠城を攻撃していた武田軍は本丸まであと一歩のところまで長篠城を攻略していたのですね。


弾正郭址

本丸のすぐ横に流れている矢沢川を挟んで弾正郭があります。上の写真の所は家老屋敷跡から南に入ったところです。また長篠城本丸の入口から右側の弾正郭の方向に進んで行くと「不忍の滝」という滝があります。城跡に滝があるなんて珍しいですね。

不忍の滝


倉屋敷址

倉屋敷址の他にも、糧庫跡、二の丸などの案内板も立っていました。要するに食糧が保存されていた所だったようです。ここも長篠城址史跡保存館の入口のすぐ近くで、既に武田軍に占領されてしまっていたとのことです。


物見櫓址

厩址からJR飯田線の小さな踏切を通過して奥に進んで行くと、物見櫓址、井戸、野牛郭を経て豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する度合まで降りて行くことができました。物見櫓は長篠城本丸のすぐ横を走っているJR飯田線のすぐ横にある小さな丘のような所でした。


殿井

河岩段丘の砂礫層と岩盤の境から湧き出る泉である。城兵の貴重な飲料水であった。
(看板資料より)


野牛郭址

殿井から更に奥に進んで行くと、野牛郭址があります。豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流する所の側にある郭で、急峻な崖に囲まれた長篠城の守りの要の場所といったところでしょうか。武田軍も対岸から筏を使って野牛郭にとりついてここを攻撃しましたが、結局攻略するまでには至りませんでした。


豊川(寒狭川)とJR飯田線

長篠城に来たら、豊川(寒狭川)と宇連川(三輪川)が合流地点(度合)を訪れることをお勧めします。対岸の橋の上からの景色もお勧めですが、ここからの景色は最高でした。この日は長篠城のぼりまつりの露店で買ったお好み焼きをここで食べながら景色を楽しみました。下の写真の宇連川(三輪川)では子供達が川で泳いで遊んでいました。水がきれいなのですね。

宇連川(三輪川)

長篠城はもちろん長篠・設楽原合戦の舞台になったところです。従来は「長篠の戦い」といわれていたものが最近は長篠・設楽原合戦と言われるようになったのだそうです。織田・徳川連合軍と武田軍が激突した設楽原は長篠城からは少し離れたところにあり、更に少し前までは長篠城は鳳来町、設楽原は新城市にあったというのも関係しているのだと思います。今では市町村合併のため共に新城市となっています。

 



2003年10月12日

要衝
長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、このあたりから平地は山に移っていく。江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪いあったいわゆる境目の城であった。
要害
長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。なお本丸の西北は矢沢の険しい谷である。平地への面を水堀と土居、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。平地へ移ってきてもできるだけ天険を利用した戦国末期の典型的な築城である。
土居と堀
この正面に見えるには、本丸の土居と堀で天正3年の姿を残している。右手に門と板橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが江戸時代に崩されて今はない。
堀の土はかき上げられて土居にした。堀には水を引き入れた。土居と堀は直線に進まず直線に近い出入りがある。この形はやがて近世の城郭へ移り変る姿を見せている。
(看板資料より)

長篠城址・史跡保存館
長篠の戦い
天正3(1575)年5月、武田勝頼軍1万5千が、徳川家康の将奥平貞昌以下500が守るこの長篠城を包囲して攻防約10日、織田信長3万、家康8千の援軍は5月18日西方4キロの設楽原に到着して陣を築く。武田軍は20日、長篠城の囲みを解いて設楽原へ進出。21日は夜明けとともに織田・徳川軍の陣地に突入し壮絶に戦うが、数千挺の銃撃にさらされ歴戦武勇の将士の多くを失った。勝頼は数騎に守られて敗走した。
長篠城
◇豊川本流(寒狭川)と、宇連川の合流点の断崖上にあり、本丸、帯郭、野牛郭、巴城郭、瓢郭、弾正郭等、総面積約10ヘクタール。
○本丸の土塁と堀の一部を今に残し、戦国末期の城郭の姿をよく見せている。
○永正5(1508)年今川氏の将菅沼元成築城。
○天正3(1575)年2月徳川家康は、奥平貞昌を城主に任命し城郭整備。5月武田勝頼の猛攻に耐える。
長篠城址史跡保存館
◇現地に残された武具や出土品、参戦将士子孫からの提供品、他に古文書などを収蔵し、長篠の戦いの全容を展示資料で見ることができる。
○奥平氏籠城の血染めの陣太鼓
○鳥居強右衛門磔死の図(落合左平次指物写)
○火縄銃(3〜30匁)各種、弾丸・用具、その他
○長篠合戦図屏風(尾張徳川家所蔵原寸復元)
○具足、武具、その他
(看板資料より)

長篠城址史跡保存館で次の本を購入しました。
・探訪 長篠の戦い
・ガイド 長篠の戦い
・長篠合戦余話
・長篠日記
・三州長篠合戦記
・山家三方衆

小国の悲劇・奥平氏
作手の奥平氏、田峯の菅沼氏、長篠の菅沼氏を山家三方衆といい、今川、織田、徳川、武田などの大国の境に位置し、上洛途中の今川義元のまさかの死や西上作戦中の武田信玄の突然の死などによって、小国が生き残るために骨肉相食む悲劇が続いた。奥平氏はもともと作手の亀山城に本拠を置き徳川家康の傘下にあり、奥平貞勝−貞能−貞昌と続きます。
その後武田軍が遠江、三河方面に進出するに及び、田峯、長篠は武田の勢力範囲となり、作手の奥平家も一族の中から武田方につくべし!との声が高まり、貞能は不本意ながら武田に従うことになり、貞昌の弟である仙丸(10才)、貞勝の弟貞友の娘於フウ(13才)、一族の虎之助(13才)が人質として差し出されました。
しかしその後、武田信玄が死亡したことが確実となると、再び奥平家に徳川の誘いの手がのびます。もともと親徳川派だった貞能、貞昌父子は武田に叛いて作手の亀山城を脱出します。しかし貞能の父である貞勝や貞能の弟常勝は武田方につくことになり、奥平家は分裂します。
武田勝頼は奥平貞能、貞昌父子の裏切りを憎み、即座に人質を成敗しますが、一方徳川家康は要衝である長篠城を落とし、再び武田に寝返ることができない奥平貞昌をあえて長篠城主に任命し死守するよう命じます。
こういった背景のもと奥平貞昌が長篠城主に任命された時に既に長篠城攻防、設楽原合戦は運命付けられていたのかもしれません。


対岸、武田軍5つの砦
宇連川の向こう岸の山には、武田兵庫頭信実(信玄の弟)以下各武将が陣をしいた。5月20日、本隊は設楽原へ進出したが、この部隊は長篠城の押さえとしてここに残った。
5月21日(太陽暦7月9日)夜明け、東三河の将士をを率いた酒井忠次(吉田城・豊橋市)はこの砦を急襲した。信実以下はげしく戦ったが多数が討死して追い落とされた。同時刻、武田軍本隊も設楽原の織田・徳川軍の陣地へ突入していった。
(看板資料より)


さかさ桑
長篠の戦の落武者が、寒狭川の中流にある小松集落にさしかかって、民家の庭に杖をつきさした。
土地の者はその強力を見てただものではないとおもい、その杖に手をふれなかった。
落武者は武田勝頼であった。杖からは桑の芽が出たが下方に向かってだけ伸びるので「さかさ桑」と名づけられた。
近年それが枯れたので、土地の人がおしみ新しいのをこの土地に植えた。
(看板資料より)

 


1999年11月23日(火)曇り
参加者:総支配人、PSアドバイザー
ルート:藤沢→厚木〜東名高速〜浜松西IC→長篠城址→医王寺→岡崎信康本陣跡→馬防柵→新城市設楽原歴史資料館→信玄塚→内藤昌豊碑、勝頼本陣跡→野田城址→信玄狙撃地→鳳来寺→浜松西IC〜東名高速〜厚木→藤沢

長篠城址
今回は、山梨の史跡めぐりの予定でしたが前夜に急に気が変わり長篠に行くことにしました。長篠城址は以前行ったことがあるのですが、また来てしまいました。
もともとこの地方は徳川と武田の勢力がぶつかりあうところであったがそのうち奥平貞昌は信玄が死んだ武田を捨てて徳川方につく決心をしました。その結果甲府にあった人質は殺され、さらに家康からは長篠城を死守することを命ざれる。
1575年、21才の奥平貞昌は500人の兵とともに長篠城に立てこもり、それを勝頼率いる15000人の武田勢が囲み猛攻撃するが落城しない。
その後鳥居強右衛門が城を脱出し、岡崎にいる信長、家康に援軍を要請しに行くが、帰路長篠城に入城する際に武田方に捕らえられてしまう。武田方からは命を助けてやるかわりに城内に向かって見方は来ないから早く武田方に降伏するように勧めるように言われるが、城内には見方が既に岡崎まで来ていることを告げたために城内は大いに元気づくが、鳥居強右衛門ははりつけの刑に処せられてしまう。設楽原の合戦にて勝頼は敗れ、武田は滅亡への道を歩み始める。

長篠城本丸

長篠城址 史跡保存館

 
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