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群馬県前橋市

村主神社

2015年07月19日


さかさ梅

天正8(1580)年、甲斐の武田勝頼が信濃の兵を併せて上州に侵入。厩橋城、大胡城、伊勢崎城と攻落した。膳城侵攻前に勝頼は全軍の兵馬に一息入れさせ、自らも村主神社の泉のほとりに馬を留め、持参していた梅の鞭を地面に逆さに挿した。それが芽をふき、村主神社の「さかさ梅」として残っている。
勝頼滅びて420年余、境内の中に移植され、2,3代目か。昔を偲ぶよすがとして伝承されている。
(石碑説明文章より)


御神木「大杉」切株

当社は延喜元年創建との口碑を伝え、社殿については、宝永5戊子(1708年)に再建された記録がある。御神木「大杉」は更にそれよりも古く、天正8(1580)年の武田勝頼による膳城攻めの頃まで遡るものと考えられる。
かつて当社神域は、巨木鬱蒼として、赤城山腹より望んで、直ちに村主神社社叢と指摘し得る程であった。
星霜幾百年、遂に樹勢衰えたるを以って昭和43(1968)年他の巨木と共に伐採したものであるが、特にこの「御神木」は切株の周囲約11メートルに及ぶ巨大なものであった。当社の由緒甚だ遠きを想い、併せて郷党の崇敬古来深厚なりしを記念すべく、この切株を永く保存し神徳を仰ぐこととする。
(看板資料より)



2005年05月05日

さかさ梅

天正8(1580)年、甲斐の武田勝頼が信濃の兵を併せて上州に侵入。厩橋城、大胡城、伊勢崎城と攻落した。膳城侵攻前に勝頼は全軍の兵馬に一息入れさせ、自らも村主神社の泉のほとりに馬を留め、持参していた梅の鞭を地面に逆さに挿した。それが芽をふき、村主神社の「さかさ梅」として残っている。
勝頼滅びて420年余、境内の中に移植され、2,3代目か。昔を偲ぶよすがとして伝承されている。
(石碑説明文章より)


御神木「大杉」切株

当社は延喜元年創建との口碑を伝え、社殿については、宝永5戊子(1708年)に再建された記録がある。御神木「大杉」は更にそれよりも古く、天正8(1580)年の武田勝頼による膳城攻めの頃まで遡るものと考えられる。
かつて当社神域は、巨木鬱蒼として、赤城山腹より望んで、直ちに村主神社社叢と指摘し得る程であった。
星霜幾百年、遂に樹勢衰えたるを以って昭和43(1968)年他の巨木と共に伐採したものであるが、特にこの「御神木」は切株の周囲約11メートルに及ぶ巨大なものであった。当社の由緒甚だ遠きを想い、併せて郷党の崇敬古来深厚なりしを記念すべく、この切株を永く保存し神徳を仰ぐこととする。
(看板資料より)

前橋市粕川歴史民俗資料館で場所を聞いてから行きましたが、途中道に迷ってしまい再び近所の人に聞いてなんとかたどり着くことができました。境内には天正8年の武田勝頼による東上州攻略の際にまつわるものがありました。
さかさ梅に似たようなものとして、長篠城にもさかさ桑というものがあります。長篠のさかさ桑は下に向ってのびたのでさかさ桑といったそうですが、村主神社のさかさ梅は逆さまに植えたにもかかわらず、そこから芽をふいたのでさかさ梅というのだそうです。


膳城
大胡城
山上城

 

 
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