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山梨県笛吹市

芍薬塚(伝・武田勝頼遺児の墓)

2014年07月12日

天正10(1582)年3月武田勝頼は新府城から岩殿山目指して落ちていった。この時武田の臣渡辺加兵衛久郡は主君勝頼の命により一族を率い、ひそかに2歳になる幼主(男子)を自分の在所である鎮目村にかくまった。しかるに幼児のため日夜泣きあかし、翌天正11年3月不幸にも病死してしまった。渡辺氏は自分の屋敷(鎮目1丁目)の人隅に葬り、芍薬を植えて後生を弔った。
その後、文化4(1807)年に加兵衛の子孫渡辺太郎兵衛保らは墓の荒廃を嘆かわしく思い、新たに石碑をつくり、芍薬も株分けして現在地に改葬した。
史跡は約5平方メートルで石碑は高さ1メートル、幅39センチメートル、奥行33センチメートルである。碑には正面に「武性院殿齋理周哲大童子」周囲にはその由来が刻まれ、選文ならびに書は当時の徴典館学頭富田武陵である。
(看板資料より)

 



2005年05月29日

甲府から国道140号線を西に向う途中、石和から春日居に入ってすぐに右側に春日居中学校が見えてきて、その先に鎮目という交差点があり、そこを右に曲って少し行ったところに芍薬塚の看板があります。芍薬塚は個人のお宅の敷地内にあるようで見学の了解を得ようとしたのですがご不在だったのかどうか分かりませんが会うことができず、しかたなくそのまま芍薬塚を撮影させてもらいました。

天正10(1582)年3月武田勝頼は新府城から岩殿山目指して落ちていった。この時武田の臣渡辺加兵衛久郡は主君勝頼の命により一族を率い、ひそかに2歳になる幼主(男子)を自分の在所である鎮目村にかくまった。しかるに幼児のため日夜泣きあかし、翌天正11年3月不幸にも病死してしまった。渡辺氏は自分の屋敷(鎮目1丁目)の人隅に葬り、芍薬を植えて後生を弔った。
その後、文化4(1807)年に加兵衛の子孫渡辺太郎兵衛保らは墓の荒廃を嘆かわしく思い、新たに石碑をつくり、芍薬も株分けして現在地に改葬した。
史跡は約5平方メートルで石碑は高さ1メートル、幅39センチメートル、奥行33センチメートルである。碑には正面に「武性院殿齋理周哲大童子」周囲にはその由来が刻まれ、選文ならびに書は当時の徴典館学頭富田武陵である。
(看板資料より)

 


恩昌寺
東陽院
真行寺
善念寺

 

 
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