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兵庫県尼崎市

善念寺


2008年05月05日

武田勝親の墓

勝親の父は武田信玄の子勝頼といわれています。信玄の死後勝頼は天正3(1575)年長篠の合戦で織田・徳川連合軍の鉄砲隊のために大敗してしまいます。天正10(1582)年の天目山の戦いで敗死したため、勝頼の子勝親は甲斐国から逃げ、当寺西摂津の戦国大名であった池田信輝をたよって富田(現在地)の地に住みついて亡くなったといわれています。史実と不明の部分が多いのですが、勝親は「甲斐国志」では「武田勝頼の第3子で、勝親は勝三または勝近ともいう」とあり、墓碑の銘文の撰者は山県長周といわれ、彼は武田信玄の勇将山県昌景の後裔ともいわれています。「国志」編纂作業より以前に墓が建立されておるために、なんらかの結びつきがあるのでしょう。
(看板資料より)

尼崎の善念寺に武田勝親の墓があるとのことで今回立ち寄りました。武田勝親というのは武田勝頼の嫡子であるとのことでした。善念寺というお寺は場所が分かりづらく現地に到着してみると外見はお寺ではなく普通の住宅でした。玄関の前に人がいたので武田勝親の墓を見に来た旨話しましたが、善念寺の方は病気とのことでお墓を参拝しに来た人たちは勝手に庭のほうにまわって見ても良いとのことでしたので門を開けさせていただいてお墓を参拝させて頂きました。お墓の近くには立派な説明看板もありました。先ほどの人の話では、お寺の方は武田姓であり、武田勝親の子孫の方であるとのことでした。

武田勝親の墓
富田村善念寺にあり。武田勝親は甲州武田信玄の摘孫にして勝頼の子なり。天正10年武田家没落の時、山州醍醐密経院は勝頼の縁者たるにより、家臣栗原左衛門尉此幼児を抱き、ここに蟄して養育し、武田左衛門と号し、大阪石山本願寺に荷担して、家臣栗山と共に籠城し、主君の仇を報いんと欲す。静謐の後、勝親僧となり、法号を善悦と名乗り此寺を創す。其後天和2年6月19日寂す。年103歳。今浄土真宗として、京師興正寺門徒に属す。
(摂津名所図会下巻より)

武田勝親の墓
勝親の父は武田勝頼であって、勝頼は長篠の合戦で、織田信長、徳川家康らの鉄砲隊のために大敗した。小田原の北条氏と結んで回復をはかったが、天正10(1582)年の天目山の戦いで敗死した。それで勝親は尼崎に逃避し池田信輝の擁護をうけて富田の地に住み着いた。
(尼崎の史跡より)

 


東陽院
芍薬塚(伝・武田勝頼遺児の墓)
真行寺
恩昌寺

 

 
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