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山梨県甲府市

武田典厩信繁屋敷跡

2007年10月28日

信虎の次男(実は三男)。生母は大井氏で、信玄・犬千代(早世)・信繁・信廉は同腹である。仮名は次郎(二郎)で、元服して信繁と名乗り、左馬助の官途を称した。この官途の唐名が典厩であり、左典厩とも呼ばれ、息子典厩信豊と区別するため、後に信繁を古典厩、信豊を新典厩と呼んだという。信玄を支えて信濃経略で活躍し、ほとんどの作戦に参加した。文人としても優れ、甲斐を訪れた公卿四辻季遠らと和歌を詠んでいる。永禄元(1558)年4月、息子信豊に、武田家に忠節を尽くすことや、日常生活や戦場での規範を記した九十九ヶ条の家訓を作成して与えている。そこでは、一条ごとに、中国の古典が根拠として揚げられており、信繁の学識の高さがわかる。川中島で壮絶な戦死を遂げた。
(看板資料より)

武田典厩信繁

(大永5年〜永禄4年9月10日)
武田家の副将軍
(看板資料より)


典厩寺
武田信繁首塚
釈尊寺

 

 
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