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愛知県豊川市

長谷寺

2008年03月16日

山本勘助の遺髪塚

長谷寺には以前にも寄りましたが、去年のNHK大河ドラマを終えてその後どうなっているのか確認したかったので立ち寄ってみました。境内の隣の敷地は駐車場になっていて境内には大きな説明用の資料が展示されていました。お寺の外には旗がたくさん立っていました。最初に山本勘助のお墓の方に行ってみました。お墓そのものは以前と変わっていませんでしたがここにも旗がありました。墓域にはトイレができていました。去年はよほど多くの人が来たのですね。土日であれば摩利支天像の見学も可能とのことでしたのでお寺の方に声をかけてみたところ、快く中に入れてくれました。


山本勘助襟掛本尊 摩利支天像

摩利支天像は1寸3分(約4cm)の小像で、当寺壇上の厨子の中に安置されています。山本勘助は25才の時、高野山に登り武芸上達を祈願すること7昼夜、満願の夜に霊験によって、夢中に弘法大師空海の作といわれる本尊を授けられ、以来、襟に掛けて己の守り本尊としました。
その後、武者修行のために諸国を歴遊し、45才で武田信玄に仕え、幾多の戦いで勇名手柄をあげました。勘助は出陣にあたり、もし戦場で討死し、身からはなさずに昼夜襟に掛けていた本像が人手に渡らんことを嘆き、当寺の念宗和尚に託しました。
本像は、火焔輪光背を背負い、三面六臂の焔髪(分怒髪)像で4頭の猪に座した騎像となっているのが特徴です。昭和47年に市の文化財に指定されました。
本像を拝み信ずる者は災難を逃れ、かつ武芸に心する者は、深く祈願すれば剣術早業の奥義を究め、将来に名を残すこと疑いなしといわれております。
(看板資料より)


山本勘助と長谷寺
山本勘助は、明応9(1500)年8月15日八名郡賀茂村(現豊橋市賀茂町)に山本藤七郎の三男として生まれ、幼名は源助と名乗っていました。勘助は15才で牛窪(現豊川市牛久保町)の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、名を大林勘助貞幸と改め、26才で武者修行のために諸国(近畿、山陰、山陽、四国、九州)へ出立するまでの若く多感な時期を、この牛久保の地で過しました。勘助が諸国を歴遊し武名を高め、35才の冬に大林家に帰還したところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、養子縁組を解き、再び山本性に戻りました。その後、関東の地を歴遊し、45才で甲斐の国(現山梨県)の武田信玄に仕え、幾多の戦いで名軍師と謳われましたが、永禄4(1561)年9月10日、川中島の合戦で討死しました。
勘助は、この地の人々と親交があり、当寺の念宗和尚とは特に親しく、武田信玄に仕えた折には、入道して道鬼斎と称し、遺髪を和尚に託しております。川中島の合戦での勘助の死を知った和尚はこれを悼み、当寺に遺髪を納めた五輪塔を建立しました。また当寺には、勘助の守本尊「摩利支天尊像」が残されています。
毎年、勘助の命日には、地元の人々により、当寺において「山本勘助祭」として供養が執り行われております。
(看板資料より)

変質する勘助伝説
江戸時代の旅のガイドブックとでもいえる寛政9(1797)年に刊行された「東海道名所図会」には、牛久保村にあった山本勘助故居の跡が紹介されています。これには勘助の略伝が記され、拝画には勘助の故居を訪れる武田信玄の光景が描かれています。信玄は計略を相談するために三度勘助を訪ねたとありますが、これはあくまでもフィクションです。「東海道名所図会」の刊行から約50年後に「参河国名所図絵」が刊行されますが、その中でも山本勘助故居の跡が紹介され、「東海道名所図会」とよく似た挿画も掲載されています。また、東海道の各宿場に関する故事や伝説を描いた浮世絵「東海道五十三対 御油」にも「東海道名所図会」同様の信玄が牛久保の勘助を訪ねる光景が描かれています。このように時代の経過とともに勘助の伝承は変質していきました。
(看板資料より)



2004年12月11日

山本勘助の墓

山本勘助の墓
戦国の昔、勘助は当寺住職念宗和尚と非常に親しく勘助が甲斐武田信玄晴信に召し抱えられた時、入道して道鬼斉と称し遺髪を和尚に託したのであります。永禄4年9月10日川中島の戦いにおいて勘助の死を知った念宗和尚は悲嘆にたえずこの遺髪を埋め墓を建てたのが現在の勘助の墓であります。また勘助の守り本尊であった麻利支天は今なお本寺に安置されています。
(看板資料より)

戦国の昔、武田信玄の名軍師として有名な山本勘助は、明応9(1500)年8月15日八名郡賀茂村(豊橋市賀茂町)の山本藤七郎の三男として生まれ、幼名を源助と名のっていました。
勘助は15歳の正月に牛久保の牧野家家臣大林勘左衛門貞次の養子となり、大林勘助貞幸と名を改め、26歳の時に武者修行のため諸国を歴遊し武名を高めて、35歳の冬に大林家に帰ってきたところ、勘左衛門に実子が生まれていたため、父子の縁を切り、養家を離れて関東の地を歴遊し、45歳の時に甲斐国(山梨県)の武田信玄に仕え、知謀をもって忠誠をつくし永禄4(1561)年川中島の合戦で討死しました。
その後、牛久保在住以来勘助と親交のあった長谷寺の念宗和尚がその死を悼み、彼の遺髪を埋めて建立したのがこの五輪塔だと伝えられています。また勘助の守り本尊であったとされる麻利支天像(市指定)が、今なお長谷寺に安置されています。
(看板資料より)

道端で長谷寺の場所を聞いた人が古文書の勉強をしている人で歴史に詳しい人だったので山本勘助のことや牛久保の歴史についていろんなお話を聞くことができました。
話によれば、山本勘助は片目、片足であったため、今川家には相応しくないとのことで仕官できず、一度北条家に仕えてから甲斐の武田家に仕えたとのことでした。山本勘助は実在の人物であり、武田軍団ではせいぜい足軽頭くらいで、管理職向きではなく、現場で能力を発揮するタイプであったろうとのことでした。
山本勘助とは別の話ですが、この牛久保にはもともと牧野氏がいたのですが、その後越後の長岡に移封されてしまい牛久保から2千人の侍が丸ごとすっぽりいなくなってしまいここは商家の町になってしまったとのことでした。そういえば河井継之助の殿様牧野氏は三河出身という話は知っていましたが三河の牛久保だったのですね。
山本勘助の墓といわれているものは、長野市の川中島にあるものは訪れたことがありますが、他にも山梨県韮崎市や、静岡県富士市にもあるとのことですので今度是非行ってみて全場所制覇したいと思います。


山本勘助の墓(川中島)
医王寺(静岡県富士市:山本勘助の墓)
宗泉院(山梨県韮崎市:山本勘助の供養塔)
山本勘助誕生地
胴合橋(川中島)
勘助宮(川中島)
山本勘助屋敷墓
傳山本勘蔵信供之墓
西明寺

 

 
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