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静岡県富士宮市

山本勘助誕生地

2014年01月18日

「山本勘助誕生地」碑
武田信玄に仕えた軍師山本勘助は、山本の吉野に生まれた人であるといわれ、同家の門前に「山本勘助誕生地」の碑が建てられた。
吉野家は南北朝時代に当地に居住したといわれる旧家で、勘助はここに生まれ幼名を源助といった。諸国を巡遊して三州牛窪(豊川市)大林家の養子となり、山本勘助と称したといわれている。このことについて「駿河志料」(江戸時代末)には「山本、此地は、高原山の下にある故に、然称しけん、武田家に武勇の聞え高かりし、山本勘助出生の地なり」とある。
そのことを碑面に残そうと、地元の青年団が主催して大正13年に「山本勘助誕生地」の碑を建立した。碑の裏面には、勘助の出生から川中島の合戦で戦死するまでの事歴が略記されている。
(看板資料より)

「山本勘助誕生地」からの一考察 吉野文郷
1.はじめに
NHK大河ドラマ「風林火山」は、甲斐「武田信玄」の軍師「山本勘助」の夢と野望に満ちた生涯の戦国ロマンです。
このNHK大河ドラマ「風林火山」において主人公「山本勘助の誕生地、富士宮市山本は「山本勘助ゆかりの地」として全国的に注目を浴びました。
(ウォーキングコースにも取り組まれており、多い時には1日4000名程の来訪がありました。)
このNHK大河ドラマ「風林火山」のあらすじは、ほぼ富士宮市山本にある「山本勘助誕生地」碑の裏面に記載されている碑文の略歴に沿っています。
2.戦国X-MENの1人:山本勘助
軍記的物語性が強い「甲陽軍鑑」に活き活きと描かれていますが、その裏づけとなる確実な史料が少なく、謎が多い人物とされ、誕生地についても諸説あります。
3.山本勘助誕生地
富士宮市山本と豊橋市賀茂の両方に、誕生、生誕の碑が建立されています。
(富士宮市山本説にまつわる古文書、古記録は多くあり、実態を反映していることが判明してきています。)
4.富士宮市山本と豊橋市賀茂との関係
勘助の父山本貞幸は、今川氏輝の家臣であり、今川氏から「三州牛久保牧野殿旗本七人之内」として派遣され、守備にあたっていたと言われており、駿河武士が三河に移住する必然性がありました。
5.まとめ
少々荒っぽい言い方かもしれませんが、三河は貞幸の勤務地、山本が実家であり、貞幸はその間を行き来していたと考えれば、勘助が出生したのは父の勤務地なのか、実家なのかということになり、今の世の中だったら良くあることだと思います。
私は、富士宮市山本説を信じておりますが、この謎解きのつめをするためには、色々な実態を総合的に考えなければ出来ないと思っています。
6.お礼
皆様方のご厚情によりまして、一時期架空の人物とまで言われた「山本勘助」がいかにも勘助らしく復活デビュー出来ましたことを、心から感謝申し上げます。

私は、「山本勘助誕生地」をこじんまりとした「梅の郷」にしたいと夢を持って取り組んでいます。
(ドラマの放送を記念して「山本紅梅」、「安女の小梅」の記念樹をはじめ、道案内板、ボランティアによる「勘助ゆかりの地」の富士山鳥瞰模型、庭や門・垣根の整備、山本勘助の描かれた「武田二十四将図」、「武者鑑」「川中島合戦絵」等々の資料のお世話も頂いております。)
又、観光ボランティアの方々のご案内等々により、「山本勘助誕生地」が口込みで全国に広がってきております。
山本勘助の兄「藤七」の子孫が清和源氏吉野冠者の後裔として「山本氏家譜」を残していますが、その中に「山本」の繁栄を願い、永遠に言い伝えられることを願った、次のような思いが記されています。〜省略〜
先人達が培ってきてこの思いが、NHK大河ドラマ「風林火山」の放送が契機となり「山本勘助ゆかりの地」の展開の一助になればと念じています。
(現地資料より)


長屋門

この長屋門は、山本勘助が誕生したといわれる父山本貞幸の本家であるここ吉野家で、江戸時代14代吉野郷三郎(有信)が陣屋代官をしていた頃に造られました。
両脇に門番がいた部屋のある門であり、横が通用門となっています。母屋は残念ながら昭和36年にもらい火で全焼してしまいました。
左手、スラリと伸びた木々の前の石碑が「山本勘助誕生地」の記念碑で「山本勘助誕生地」は、こじんまりした「梅の郷」ともなっています。
山本勘助の兄「藤七」の子孫が清和源氏吉野冠者の後裔として「山本氏家譜」を残していますが、その中に「山本」の繁栄を願い、永遠に言い伝えられることを願った、次のような思いが記されています。〜省略〜
(看板資料より)

 



2005年07月03日

山本勘助晴幸は冨士郡大宮町山本なる吉野家に生る父を吉野貞幸とい母は大橋氏、其の先吉野冠者源重季に出ツ重季の子孫世世南朝に仕えて臣節を致し八世貞倫山本村に移り多由八幡宮を創建して其の祠戦となる男貞久専を軍学を修めて男子を挙げ長を貞宗といい次を貞幸という貞宗子なく貞幸の一子を養て祠となす貞幸亦文武を励み諸国を巡遊して参州牛窪に住し山本氏を稱し同地の人大橋入道の女を娶り後山本に住して一子を源助と名づく源助年12出て牛窪の人大林助左衛門の養子となり名を勘助と改め年二十大林氏を去り山本氏を冐し京都に出て専ら文武の両道を学び河内に入り楠公の遺蹟を探り軍学の応用築城の利害を研鑚して其奥義を極め牛窪に住して軍学兵法を講し其名四境に聞えしかは武田晴信幼時に主従の約を定む。天文13年晴幸甲府に入り公の帷幄い参し同15年3月奇計を以って村上義清を破り殊勲人を驚かし名聲内外に云々。永禄4年9月10日川中島戦役に従い奮闘数字其身遂に是役に斃る行年六十三法諡鉄巖道一禅定門子息某嗣き亦長篠に戦死し跡絶つ今や静岡県補助の下に、摂政宮殿下の御成婚を記念すべく大宮青年山本分團等建碑の企あり吉野宗家の主賓文を予に乞う予乃て事歴の梗概を叙し堅石に刻して其の産地に建つ。
(石碑裏に刻まれた文書より)

以前、富士市の医王寺に行った時に富士宮市の山本というところに山本勘助が生まれたところと伝えられているところがあるという話を聞いていたので今回立ち寄ってみることにしました。カーナビの住所検索で山本というところを目的地にセットして現地に向いましたがどうしても場所が分からず、地元の人に聞いてみました。私が尋ねた老婆はちょうどその場所のことをよく知っていて丁寧に教えてくれました。その人も昔はそこでよく遊んだのだそうです。普通の人の家の敷地内?にあるらしいのですが石碑のところまで行ってみてもいいのか確認したら問題ないとのことでしたのでお邪魔させていただきました。現地には上の写真のように「山本勘助誕生地」と書かれた石碑があるだけでしたが、裏にまわってみると石碑に彫られた説明文章が書かれていました。

 


山本勘助晴幸生誕地(愛知県豊橋市)
医王寺(静岡県富士市:山本勘助の墓)
長谷寺(愛知県豊川市:山本勘助の墓)
宗泉院(山梨県韮崎市:山本勘助の供養塔)
山本勘助の墓(川中島)
胴合橋(川中島)
勘助宮(川中島)
山本勘助屋敷墓
傳山本勘蔵信供之墓
西明寺

 

 
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