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山梨県甲州市

大善寺

2013年12月28日

仁王門

武田勝頼主従 投宿の地(大善寺)
全国統一を競った武田信玄亡き後の勝頼は、織田徳川連合軍の近代装備と物量の前に敗退し、天正10(1582)年3月3日、郡内の岩殿城で再起を図ろうと韮崎の新府城を出発し、途中この柏尾山大善寺で戦勝祈願をして、一夜を明かしました。
しかし武田家再興がかなわないと見た家臣の大半は夜半に離散し、また、岩殿城主小山田信茂の裏切りに合い、勝頼主従は天目山を目指しましたが、織田徳川の連合軍に行く手をはばまれ、ついに3月11日、勝頼以下一族と家臣は自決し、新羅三郎義光以来500年続いた甲斐源氏も、ここに滅亡したのであります。
その一部始終を見聞した理慶尼記は別に武田滅亡記ともいわれ、尼の住んでいた大善寺に今なお大切に保管されています。
(看板資料より)

国宝薬師堂



2003年10月06日

平成15年10月1日から10月08日までの間、大善寺にて5年に一度の御本尊の御開帳とのことだったので行ってきました。
天候はあいにくの雨でしたが、国宝薬師堂にて大善寺の説明及び武田勝頼のお話なども聞くことができました。

大善寺について
大善寺は山梨県で一番古く、昔は天皇家の勅願所だったのだそうです。伽藍の数は52を数えましたがそれぞれの建物の大きさは具体的には分からないとのことでした。
そもそも大善寺は日川を挟んで多くの建物があったそうですが、鎌倉時代の後期に1回目の大きな火災がありそのときに日川から今の大善寺側が全部燃えてしまい、そのときに薬師堂も燃えたそうですが、しかしその後再建されたとのこと。次に今度は建武年間、南北朝時代に南北争乱の影響を受け、今度は川の向こう側が全部焼けてしまい、その後再建はされなかったのだそうです。
その後、川のこちら側も何度か火災にあい、薬師堂だけが残ったのだそうです。薬師堂も全部で4回火災にあったそうですが、先ほどの鎌倉時代後期の火災後に再建されて以来そのままの姿を保っており、今年で710年たったのだそうです。鎌倉幕府が作った建物のうちこの大善寺の薬師堂が唯一現存している建物なのだそうです。
薬師堂の中には厨子(ずし)があり、これは1355年に武田信春が寄進したものだそうで国宝に指定されているのだそうです。その後文明5年(1470年代)に修理されており、その時代の影響が強く残されているとのこと。武田氏に関係する建物で国宝に指定されているのはこの厨子だけなのだそうです。従って国宝薬師堂の中にある厨子も国宝なのですが、一体であることから国宝としては1件に数えられているのだそうです。

武田勝頼について
大善寺には、理慶尼という武田の親族にあたる方がいました。彼女の父は武田信虎の弟で後に勝沼氏を名乗った勝沼信友であり、北条氏との戦いで戦死。その後嫡男である勝沼信元が跡を継ぎましたが謀叛の疑いをかけられ成敗されました。それに伴い、妹の理慶尼は嫁ぎ先から離縁され大善寺にいたのです。
勝頼からみれば、父信玄が成敗した信玄の叔父の娘が理慶尼であり、理慶尼からすれば自分の兄を殺した従兄妹の息子が勝頼ということになります。
山門の右側(今は畑になっている)に理慶尼の庵室があり、そこから理慶尼が勝頼、勝頼夫人、信勝3人を薬師堂に案内し、天正10年3月3日の夜は彼ら4人でこの薬師堂に宿泊したのだそうです。
新府城を出発したのが3月3日ですから、その日のうちに勝沼の大善寺まで来ていたのですね。3月3日の夜のこの薬師堂の中の情景はどんなだったのでしょうか。

説明が終わった後に国宝薬師堂の内部を見学しました。
中央の厨子の中には薬師如来があり、両脇には日光月光菩薩がありました。5年に一度の秘仏の御開帳だったのでしっかりと拝みました。その後、裏側にも回ってみましたが、武田軍出陣時の口伝や、理慶尼記がありました。

 


2001年02月18日

柏尾山大善寺は奈良時代の養老2年(718)に行基によって創建されたお寺で歴代天皇の勅願所でもあった真言宗智山派のお寺です。
伝説では行基が勝沼の柏尾にて日川の渓谷の大石の上で修行したところ満願の日夢のなかで右手にぶどうを持った薬師如来があらわれたという。行基はその夢を喜んで夢に出てきた姿と同じ薬師如来像を刻んで安置したのが大善寺の始まりといわれている。
薬師堂(本堂)は、鎌倉時代に建てられた国宝建造物で建造後1280年たっており関東甲信越でも最も古い建物といわれている。
説明してくれた方の話では奈良、平安時代には50以上の伽藍が立ち並び、寺領は今の塩山や石和の方までにおよんでいたという。大きな合戦が起こるたびに建物は焼失し、今は仏像などはすべて本堂にまとめて安置されている。
本尊は5年に一度の御開帳のときしか見ることができないが、次の御開帳は平成15年10月1日から8日間だそうである。

天正十年(1582)3月3日韮崎の新府城を出発した勝頼は郡内(山梨県東部)で再起をはかるため東に向う途中、この大善寺で戦勝祈願をして一夜を明かしました。
しかし家臣の大半は逃げ出し小山田信茂の裏切りもあり、3月11日天目山田野にて武田家は滅ぶ。


仁王門

国宝の薬師堂(本堂)


理慶尼の墓

勝沼信元の妹である理慶尼は、永禄3年(1560)に兄が信玄に滅ぼされたときに嫁ぎ先から離縁され大善寺を頼って尼となりました。
天正十年(1582年)3月、新府城から逃げてきた勝頼主従を大善寺に泊めその一部始終を目撃した彼女は後に理慶尼記(武田滅亡記ともいう)を残し、今も大善寺に保存されています。


ぶどうのサービスがあった。



1984年03月30日

1984年に家族旅行で、愛知県、静岡県、山梨県の武田信玄史跡めぐりをしましたが、そのときのアルバムから写真を厳選してスキャナで取り込んでみました。上の写真は国宝薬師堂の中にあるこれまた国宝の厨子だと思います。現在はもちろん写真撮影は禁止ですがこんな写真が残っているということは当時は撮影は自由だったのでしょう。厨子の脇には十二神将?や日光、月光菩薩?なども見受けられます。

 

 
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