| 新府城 |
2003年10月06日 |
駐車場からの新府城
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新府城は、正式には新府中韮崎城といい、天正9(1581)年春、武田勝頼が甲斐府中として、城地を七里岩南端韮崎の要害に相し、武将真田昌幸に命じて築かせた平山城である。勝頼がこの地に築城を決意したのは、織田信長の甲斐侵攻に備え、韮崎に広大な新式の城郭を構えて府中を移し、これに拠って強敵を撃退し、退勢の挽回を期した結果であろう。築城工事は昼夜兼行で行われ、着工後8ヶ月余りで竣工した。ついで城下町も整ったので、新府韮崎城と名付け、同年12月、甲府からここに移り、新体制を布いたのであった。しかし戦局は日に悪化して翌年3月、勝頼は織田軍の侵入を待たず、みずからこの城に火を放って退去するのやむなきに至り、天目山田野の里に滅亡の日を迎えたのであった。廃墟と化したこの城も、同年6月本能寺の変で織田信長が亡び、徳川・北条両氏が甲州の覇権を争うと、家康はこの城跡を修築して本陣とし、われに5倍する兵を率いて若神子に布陣する北条氏直を翻弄して有利に導き名城新府の真価を発揮したのである。この城は八ヶ岳火山の泥流による七里岩の上にあり、その地形をよく生かして築かれたその城地の特色は、城外から俯瞰されないことで縄張りの特徴は北方に東西2基の出構を築き、鉄砲陣地とした点で、従来の城郭には見ることのできない斬新な工夫である。現存する主な遺構は、頂上の本丸を中心に西に二の丸、南に三の丸、大手、三日月掘、馬出、北に出構、搦手口、東に稲荷曲輪、帯曲輪があり、北から東に堀が繞らされている。史跡指定区域は約20ヘクタールに及ぶ広大なものであるが、この外側には部将らの屋敷跡と伝えられる遺構、遺跡が散在している。 新府城は以前PSアドバイザー氏と来たことがありましたが、今回来てみて、前回は全部を見てまわっていなかったことが良く分かりました。 |
新府城跡出構(東出構え)
| 出構は城の外郭の一部を長方形に濠の中へ突出させた鉄砲陣地で、防御上最も弱いと見られる北正面に向けて、東西に約百メートル隔てて並行に2本が築かれている。 (看板資料より) 真田昌幸が縄張りした城 |
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新府城は、天正10年3月織田軍の侵攻を前に、武田勝頼自ら火を放って東方郡内領岩殿城を指して落ちていった武田家滅亡の歴史を伝える悲劇の城である。 ミステリースポットとしての新府城 |
石祠・武田勝頼公霊社
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勝頼公霊社は、武田氏滅亡後当地方民が国主の恩徳を追慕し新府守護神・藤武神社の北西の地を相して石祠を建立し、勝頼神社と称し、毎年卒去の当日は、慰霊祭を執り行い「お新府さん」と呼び藤武神社とともに地元民から親しまれてきた。勝頼神社建立の時期は、貞亨、元禄(1684年)の頃と言い伝えられている。 両脇には長篠役陣没将士の墓として、大塚と小塚があり、左側には勝頼公霊社から近い順に、馬場美濃守信房、山県三郎兵衛昌景、高坂源五郎昌澄、真田源太左衛門信綱、真田兵部丞昌輝、小山田五郎兵衛昌輝、五味貞氏と続き、右側には、武田兵庫頭信実、原隼人佐昌胤、内藤修理亮昌豊、高坂又八郎助宣、土屋右衛門尉昌次、甘利郷左衛門信康、横田十郎兵衛康景と続いています。 |
本丸からの景色
蔀の構
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本丸と、本丸馬出しの間にある。蔀は城内を見渡せないように工夫したもので、植込・蔀土居・蔀塀の構えである。 |
二の丸
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甲陽軍鑑によれば、新府城から落ち延びる際に、真田安房守(真田昌幸)が吾妻(多分岩櫃城)へ御籠城なさるようにと進言したが、長坂長閑は真田は一徳斎(真田幸隆)以来わずか三代仕えた侍大将であり、それよりは譜代の小山田兵衛が申し出た郡内の岩殿に籠城するほうがよいと判断して勝頼公に申し上げ、勝頼も真田に従うことなく古府中に向かって行ったという。 |
西三の丸
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新府城は構築された年代のせいか、思ったより規模が大きくて驚きました。これだけの城を作って首都移転を行ったにもかかわらず3ヶ月余りで、自ら火を放ってしまうことになります。 |
東三の丸
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1999年09月05日 武田信玄は「人は石垣、人は掘、情けは味方、仇は敵なり」という歌にも知られている通り甲斐国内には城を作らなかったが、勝頼の代になって徐々に信長、家康勢力に押されぎみになり、穴山梅雪の助言によってこの韮崎に城を築いたのであった。築城の総責任者は真田昌幸(真田幸村の父)であり、七里岩という断崖絶壁の土地を利用した難攻不落の城である。とんでもなく長い階段をやっとのことで登り、本丸に行ってみると結構大きい土地が広がっていた。かなりの規模の城であったことがわかる。せっかく作ったこの城は勝頼が入城して3ヶ月目には勝頼自ら火を放ち、東へ落ち延びていくことになる。 |
本丸跡