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埼玉県寄居町

鉢形

2005年05月01日

荒川と鉢形城

鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万uです。城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
鉢形城は、文明8(1476)年関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦に入婿した小田原の北条氏康の四男氏邦が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。また鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は6月14日に至り城兵の助命を条件に開城しました。開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
(看板資料より)

鉢形城歴史館

去年の秋に鉢形城歴史館というものができたらしく、立ち寄ってみました。場所は鉢形城本丸から深沢川を越えた反対側にありました。なかなか立派な歴史館で入場料は200円。2階から入って1階に行くようになっていましたが2階の受付で、
・鉢形城開城(北条氏邦とその時代)
・実説 鉢形城主 北条氏邦の生涯
という本を購入しました。
展示内容は城の構造の説明及び、豊臣秀吉による鉢形城攻略の際のことばかりで、武田信玄による鉢形城攻撃のことについては残念ながらあまりよく分かりませんでした。歴史館から遊歩道を歩いて行くと深沢川を横断して鉢形城の本丸に行くことができました。また今回は荒川を渡って城の反対側まで行ってみましたが、荒川に面する鉢形城本丸の断崖絶壁を確認することもできました。

深沢川

鉢形城の位置
寄居町は、埼玉県の中央部やや北寄りで、荒川が秩父山地から関東平野に流れ出るところに形成された扇状地形の頂点付近に位置しています。標高は最高点(三の曲輪)で122mです。荒川南岸の河岸段丘上に立地し、荒川の断崖と荒川に流れ込む深沢川の深谷に挟まれた天然の要害を巧みに利用して築城されています。城の東方には鎌倉街道の赤浜の渡しがあり、また秩父方面への街道である秩父往還の釜伏峠を下ると鉢形城の正面に当たるように、交通の要衝に占拠しています。城の三方を外秩父山地と上武山地の丘陵が取り囲み、城からの視界は良くありませんが、周囲の丘陵の主要な高台には物見台や狼煙台が置かれて、監視や防衛に当てられていました。
(看板資料より)

深沢川

鉢形城の構造
鉢形城は、深沢川が荒川に合流する地点に立地しているため、地形上、東南北側は堅固ですが、西側は開けており防衛上の弱点となっています。そのため、城主の居館や上級武士の館のあった本曲輪から西側に何重にも深い彫切りを行い、二の曲輪・三の曲輪などの曲輪をいくつも造成しました。さらにその外側には寺院を密集させて寺町とし防備を厚くしました。
大手の位置は、城の西側で城の拡張とともに移動しましたが、最終的には現在の諏訪神社の南側付近にあったと考えられています。各曲輪は、掘と土塁で囲まれるほか、主要な出入口には方形の馬出を備えており、曲輪ごとに部将が定められ管理をまかされていました。また、城の外側は周囲の小河川を上手く取り込み、水掘としていました。
深沢川の南側には、後に城を拡張して外曲輪を造成し、下級武士の住まいなどとしたほか、さらにその南側に城下町を形成し、城の守りを兼ねさせていました。
(看板資料より)



2003年08月07日

鉢形城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川があって自然の要害をなしています。文明8(1476年)に長尾景春が築城し、その後上杉方の持城として栄えました。室町末期に至り、上杉家の家老で、この地方の豪族であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。
城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村を搦手としています。本丸、二の丸、三の丸、秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝えられており、寺院、神社があり、土塁、空掘が残っています。
天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本田忠勝、真田安房守らに四方から攻撃され、三ヶ月の戦いの後、落城しました。
(看板資料より)

よみがえる鉢形城
鉢形城跡は、今から約400年前の戦国時代末に北条氏邦が北関東支配の拠点とした平山城で、寄居町のシンボルともいえる貴重な文化財です。昭和7年に城域約240,000uが国の史跡指定を受けています。
町はこの鉢形城跡を将来にわたって保存し、史跡公園として皆様に活用して頂くために、地元の方々のご協力により土地の公有化を進め、発掘調査を行い、その成果に基づいて城の復元整備を実施していきます。
発掘調査・整備工事中はご迷惑をおかけしますが、皆様のご協力をお願い申し上げます。
(看板資料より)

鉢形城本丸跡

永禄12(1569)年9月、武田信玄は信州碓氷峠を越えて南下し、武蔵鉢形城を包囲。しかし落城させることなく、その後小仏峠を越えて武蔵に侵入した小山田信茂の軍勢と合流して滝山城を攻め、更に南下して小田原城を包囲し、帰路三増峠の合戦で北条軍を破って甲斐に帰ります。


史跡鉢形城跡と四十八釜
ここは、国指定史跡鉢形城跡の搦手(からめて)である。鉢形城は荒川の断崖絶壁と急峻な深沢川の渓谷に囲まれた地形を利用した平山城で、戦国時代史を彩る屈指の名城である。築城時期は文明8(1476)年長尾景春説が有力である。その後関東管領山内上杉氏と経て永禄年間に北条氏邦が入城し、天正18(1590)年6月14日豊臣秀吉軍に開城された。
城の内掘として重要であった深沢川は今も尚両岸より断崖絶壁が迫り、灌木天を覆い渓谷の姿を止めている。激しい渓流は谷底の岩盤をうがち幾多の淵をつくり、いつのころからか淵を釜と呼んで「四十八釜」と称され、現在町指定の名勝である。代表的な「船釜」は水深3メートルを越え「艫ノ滝」が落ち込む幽谷美に満ちた淵である。尚、古くは当地域は「数釜ノ庄」と呼ばれ語源を深沢川の釜に求める伝承が今も残されている。
(看板資料より)

 

 
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