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神奈川県愛川町

三増合戦場


2004年10月10日


志田南遺跡出土遺物について

平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
(看板資料より)

 



2003年11月23日

この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同。畑の中にあった三ヶ所の塚の主たちの霊魂を弔うと共にこの山野で鮮血に塗れ、屍を晒して散った、四千有余人の武者たちの無念さを思い「三増合戦を偲ぶ会」として、ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。
(看板資料より)

三増合戦場の碑のまん前に上記のような碑があり説明書きの看板がありました。平成11年と記載されていたので昔からあったようなのですが今回までまったく気がつきませんでした。この日首塚、胴塚を案内してくれた方もここに碑を移した有志の一人だったそうでその旨説明してくれました。

 


 

2003年05月24日
PSアドバイザー氏とともに三増峠の合戦が行われたといわれる神奈川県愛川町及び津久井町、城山町周辺を探索してきました。前回は合戦の碑が立っているところやゴルフ場内の信玄公旗立松などに行きましたが、今回はもう少し踏み込んで実際に合戦が行われた三増峠や志田峠付近、及びその北方にある津久井城に寄ってみました。

三増峠の合戦の具体的な経過について書かれているものは甲陽軍鑑しかないらしく、当然のことながら武田びいきに書かれているものと思われます(私は甲陽軍鑑全文を持っていないので書かれている内容がわかりません。そのうち買っておきたいと考えています)。私にとっての三増峠の合戦とは新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれているものが印象深いのですが、いろんな本に書かれていることや現地の看板に書かれていることとは必ずしも一致していないようです。
新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれている三増峠の合戦は、小田原城を囲んでいた武田軍が撤退するのを阻止すべく北条方の軍勢が三増峠に布陣して待ち構えていたところを、武田軍は3隊に分かれてそれぞれ、志田峠には山県昌景、三増峠には馬場信春率いる本隊、その東側に信玄率いる旗本が戦場全体を見渡せる小高い場所を占領してそこから鉄砲の音を使って全体を指揮。津久井城には小幡尾張守を差し向け、そのうち志田峠に進む山県昌景が敵を突破し、これをきっかけに武田軍が勝利したことになっています。
しかし実際に現地に行ってみると三増合戦碑のところの看板には、もともと三増峠に陣取っていた北条勢は、武田勢が押し寄せてくることが分かると、志田峠の西方の半原に陣を移し、武田勢が三増峠付近をおさえ、小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにしたが、そこへ北条方が攻め寄せたことになっています。激闘の末、山県別働隊が北側から志田峠を越えて北条軍の背後(側面)をついて武田軍が勝利したとのことです。前者は武田が北に攻めあげたことになっていますが、後者は北条が攻めあげたような記述になっています。
その他にもいろいろな情報がありますが今のところ私の知りうる範囲で共通しているのは、
・武田軍は甲州へ退却するという大目的は達することができた。
・山県昌景が別働隊として志田峠付近で活躍した。
・武田側は
津久井城を重要拠点として注目し、ここを抑えるために派兵した。
・武田方の浅利信種が戦死した。
・戦後、武田軍は甲州までの退却時に難渋した。

ということでしょうか?
近くにある旗立て松も氏照や氏邦の旗立て松ではなくて敵地の武将である信玄の旗立て松だし、看板に書かれている文章のニュアンスも武田方が勝ったように書かれているし、その後語り継がれているいろいろな伝説についてもいかに武田軍が強かったかということが語り継がれているような気がしました。
三増合戦場の碑の近くでは人骨などが発見されたこともあるらしいのでここで武田と北条による合戦が行われたことは事実であるようですが、合戦についての詳しい経過は分かりませんね。
武田軍は小田原から駆けつけるであろう北条の本隊が来る前に急いで帰らねばならず、雰囲気的には山に陣取っている北条軍を打ち破って北へ進んで行ったような気がするのですが、そうすると現在東名厚木カントリークラブ内にある信玄の旗立て松の存在は何なのでしょうか?小説のとおり武田の本陣が置かれてここから戦況を見て全軍に指揮したのでしょうか?それとも説明に書いてあるとおり旗を立てただけなのか、もしくは合戦とはまったく関係なかったかもしれません。

今日はPSアドバイザー氏にも同行してもらい、彼は三増合戦について何も知らなかったため、合戦の概要が書かれている説明が書いてある三増合戦の碑のところに寄りましたが、前回来たときよりよく整備されていました。

 


 

2001年08月18日
藤沢→厚木→三増峠→津久井→半原→東名厚木C.C→三増合戦場→厚木→東名→首都高速→市川

午前11時に自宅を出発。三増合戦場の碑を通り過ごし、先に三増峠を越えて津久井に出てから長竹、半原と周って東名厚木C.Cに到着。ゴルフ場にゴルフ以外の目的で入ったのは初めてでした。あいにくの雨でしたがゴルフ場の駐車場は満車。車を置かせてもらってカメラを片手に旗立て松のある山に登りました。まるでO.Bを打った後の山の中のボール探しのようでした。頂上からの景色は最高でした。雨が強くなってきたのですぐに下山して、隣の志田峠の方に行ってみましたが車では行かれそうもないので途中で断念。その後三増合戦場の石碑に寄ってきました。


三増合戦のあらまし
永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという。
(愛川町教育委員会:看板資料より)

 

 
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