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2003年05月24日
PSアドバイザー氏とともに三増峠の合戦が行われたといわれる神奈川県愛川町及び津久井町、城山町周辺を探索してきました。前回は合戦の碑が立っているところやゴルフ場内の信玄公旗立松などに行きましたが、今回はもう少し踏み込んで実際に合戦が行われた三増峠や志田峠付近、及びその北方にある津久井城に寄ってみました。
三増峠の合戦の具体的な経過について書かれているものは甲陽軍鑑しかないらしく、当然のことながら武田びいきに書かれているものと思われます(私は甲陽軍鑑全文を持っていないので書かれている内容がわかりません。そのうち買っておきたいと考えています)。私にとっての三増峠の合戦とは新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれているものが印象深いのですが、いろんな本に書かれていることや現地の看板に書かれていることとは必ずしも一致していないようです。
新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれている三増峠の合戦は、小田原城を囲んでいた武田軍が撤退するのを阻止すべく北条方の軍勢が三増峠に布陣して待ち構えていたところを、武田軍は3隊に分かれてそれぞれ、志田峠には山県昌景、三増峠には馬場信春率いる本隊、その東側に信玄率いる旗本が戦場全体を見渡せる小高い場所を占領してそこから鉄砲の音を使って全体を指揮。津久井城には小幡尾張守を差し向け、そのうち志田峠に進む山県昌景が敵を突破し、これをきっかけに武田軍が勝利したことになっています。
しかし実際に現地に行ってみると三増合戦碑のところの看板には、もともと三増峠に陣取っていた北条勢は、武田勢が押し寄せてくることが分かると、志田峠の西方の半原に陣を移し、武田勢が三増峠付近をおさえ、小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにしたが、そこへ北条方が攻め寄せたことになっています。激闘の末、山県別働隊が北側から志田峠を越えて北条軍の背後(側面)をついて武田軍が勝利したとのことです。前者は武田が北に攻めあげたことになっていますが、後者は北条が攻めあげたような記述になっています。
その他にもいろいろな情報がありますが今のところ私の知りうる範囲で共通しているのは、
・武田軍は甲州へ退却するという大目的は達することができた。
・山県昌景が別働隊として志田峠付近で活躍した。
・武田側は津久井城を重要拠点として注目し、ここを抑えるために派兵した。
・武田方の浅利信種が戦死した。
・戦後、武田軍は甲州までの退却時に難渋した。
ということでしょうか?
近くにある旗立て松も氏照や氏邦の旗立て松ではなくて敵地の武将である信玄の旗立て松だし、看板に書かれている文章のニュアンスも武田方が勝ったように書かれているし、その後語り継がれているいろいろな伝説についてもいかに武田軍が強かったかということが語り継がれているような気がしました。
三増合戦場の碑の近くでは人骨などが発見されたこともあるらしいのでここで武田と北条による合戦が行われたことは事実であるようですが、合戦についての詳しい経過は分かりませんね。
武田軍は小田原から駆けつけるであろう北条の本隊が来る前に急いで帰らねばならず、雰囲気的には山に陣取っている北条軍を打ち破って北へ進んで行ったような気がするのですが、そうすると現在東名厚木カントリークラブ内にある信玄の旗立て松の存在は何なのでしょうか?小説のとおり武田の本陣が置かれてここから戦況を見て全軍に指揮したのでしょうか?それとも説明に書いてあるとおり旗を立てただけなのか、もしくは合戦とはまったく関係なかったかもしれません。
今日はPSアドバイザー氏にも同行してもらい、彼は三増合戦について何も知らなかったため、合戦の概要が書かれている説明が書いてある三増合戦の碑のところに寄りましたが、前回来たときよりよく整備されていました。
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