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神奈川県愛川町

三増合戦場


2014年01月04日

三増合戦のあらまし
永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという。
(愛川町教育委員会:看板資料より)

小田原城を囲んでいた信玄は永禄12年10月6日の朝に鎌倉鶴岡八幡への参詣と宣伝しながら小田原をたった。しかし平塚まで来た武田勢は進路を北に変え、甲州への道をとり、その夜は田村、大神の辺に宿営した。
この情報を得た北条氏康は、敵は必ず三増峠を越えるものと判断。二男氏照に命じて二宮、伊勢原、荻野をぬけて三増へと向かわせ、その後を三男氏邦、女婿綱成ほか関東各地の将兵らおよそ2万が我先にと追い続いた。そして氏康自身は後から出向くことにした。
明けて10月7日、田村、大神辺を出発。北条勢の動向を知った信玄は、「氏康が来てさえ容易ではない戦いに、末子どもだけで何ができよう。今度のいくさは信玄の勝利」と確信を固めた。
厚木を過ぎ反田あたりで中津川を渡り、金田の牛久保坂を登り依知原へ出た武田勢は道を北西にとり在郷の土豪と小競り合いをしながらも三増へと歩を一筋に進めた。
一方氏照ら北条方の軍勢は、あまりに三増到着を急いだため各部隊は混乱し統制を失ってしまった。折角武田方より先に着いた三増の地ではあったが、一旦半原台地に退き、態勢を整え、その上で武田勢を三増峠筋の金山、上三増の凹地に誘い込んで攻撃しようとした。
しかし山岳戦に馴れた武田方は、この氏照の思惑とは違い三増の高地を占領してしまった。
陣容を整えた北条勢は、8日の明け方に志田、道場、町屋の原に兵を進めここに相甲二軍の合戦は開始された。
はじめ武田勢の一部が隊伍を乱して山を登るのを退却と見間違えてしまった北条勢は、残らず討ち取れとばかりに攻め立てた。武田方のしんがりを北条氏邦、綱成らの一団が攻め、激闘は北条方有利のうちに展開。武田方の大将浅利信種は綱成の部下が放った鉄砲で胸を打たれて戦死した。また志田原に向かった氏照らの一隊は四郎勝頼、馬場信房らの陣地を攻撃、武田勢よくこらえながらも北条勢は高地の下まで追詰めていった。
もしこの時氏康率いる援軍が到着していたなら、戦いのすがたは一変していたかもしれない。だが、援軍の到着は無く、その上北条方にとっては思いもかけぬ事態が出現した。それはさきに中峠を登って行った山県昌景らの指揮する5千の精兵が山の向うで折り返し志田沢沿いに押し下って来たことである。
これを機に、信玄の旗本は真正面から攻めかかり、左側背から降ってわいた遊軍に殺到されては北条勢に支える術はない。総軍ついに崩れだち討たれるものは数知れず、敵の手から危うく逃れ得た者は、田代半原の方へ走る。志田山に逃げ場を失った者は所選ばず中津川に飛び降り川越しに逃げる。勝ちに乗じた武田勢はどこまでも追い、あるいは斬り、あるいは射殺し、あるいはつき射し凄惨目をおおうほどであった。
中でも氏照は味方総敗軍の中に踏みとどまって奮戦していたが、馬がたおれやむなく自刃というところを家来に助けられようやく半原山へ脱出したという。
氏康氏政父子は1万の兵を連れて荻野新宿まで駆けつけてきたが時すでに遅く、敗軍と聞いて小田原へ引き返してしまった。
信玄は長追いをせず、軍勢をまとめて串川から相模湖町の反畑に出、ここで戦勝の式を行い戦死者の供養をした。戦死者は北条方3,269人と戦書に見え、武田方についてはある本に900人とあり、その戦いの激しさを示している。信玄は翌9日甲府に向けて帰陣した。
(愛川町教育委員会【三増合戦】より抜粋)

落武者とモロコシ
北条側の落武者たちは、命からがら経ヶ岳の尾根にたどり着きました。ひと息ついて、日が西に傾いた里を眺めると、数百本の槍を立てて待ち構える武田軍の伏兵が見えます。もはやこれまでと観念した彼らは切腹して死んでしまいました。しかし、落武者が槍と見えたのは実はモロコシだったのです。その後、村人達はモロコシを作らないことにしたといわれます。清川村法論堂地区に伝わる伝承です。
(愛川町郷土資料館 三増合戦の伝説より)


志田南遺跡出土遺物について
平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
(看板資料より)


この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同。畑の中にあった三ヶ所の塚の主たちの霊魂を弔うと共にこの山野で鮮血に塗れ、屍を晒して散った、四千有余人の武者たちの無念さを思い「三増合戦を偲ぶ会」として、ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。
(看板資料より)

永禄戦士供養塔
この畑(三増下志田原1133の1)には昔から塚のような土堆が三ヶ所あり、これを整地して一ヶ所に集め、懇ろに弔うことにしました。今から430年前(永禄12年10月6日)戦国の世、甲斐の武田勢二万が小田原遠征から帰るのを待ち受けた北条勢二万、合わせて四万もの大軍が激しく戦った三増合戦の古戦場であります。この日夜明けから薄暗くなるまでに四千人の死者が出て終ったという。
平成11年8月吉日 三増合戦を偲ぶ会一同建立
(石碑記載文章より)



2004年10月10日


志田南遺跡出土遺物について

平成10年正月5日、ここから東へ130メートル程の桑畑の中、「塚場」と呼ばれる地点で、人骨及び六道銭が発見されました。この周辺は北条・武田の二大戦国大名が戦った三増峠合戦主戦場ということもあり、戦死者の骨である可能性があります。鑑定の結果、骨の主は筋肉が良く発達した壮年後半の男性であることが分かりました。また、一緒に出土した銭は全て中世の渡来銭でした。地元では「相模国風土記稿」に見える北条氏の家臣間宮善十郎の墓であるとの説もあり、三増合戦場碑の傍らに埋葬することにいたしました。
(看板資料より)

 



2003年11月23日

この畑(三増上志田原1133-1)の耕作者の懇請を、十数人の有志が賛同。畑の中にあった三ヶ所の塚の主たちの霊魂を弔うと共にこの山野で鮮血に塗れ、屍を晒して散った、四千有余人の武者たちの無念さを思い「三増合戦を偲ぶ会」として、ささやかな供養塔を建て、御霊安かれとひたすらに念じ続けて参りました。その後「三増合戦まつり実行委員会」の設立に伴い、これと合流して現在に至っております。
(看板資料より)

三増合戦場の碑のまん前に上記のような碑があり説明書きの看板がありました。平成11年と記載されていたので昔からあったようなのですが今回までまったく気がつきませんでした。この日首塚、胴塚を案内してくれた方もここに碑を移した有志の一人だったそうでその旨説明してくれました。

 


 

2003年05月24日
PSアドバイザー氏とともに三増峠の合戦が行われたといわれる神奈川県愛川町及び津久井町、城山町周辺を探索してきました。前回は合戦の碑が立っているところやゴルフ場内の信玄公旗立松などに行きましたが、今回はもう少し踏み込んで実際に合戦が行われた三増峠や志田峠付近、及びその北方にある津久井城に寄ってみました。

三増峠の合戦の具体的な経過について書かれているものは甲陽軍鑑しかないらしく、当然のことながら武田びいきに書かれているものと思われます(私は甲陽軍鑑全文を持っていないので書かれている内容がわかりません。そのうち買っておきたいと考えています)。私にとっての三増峠の合戦とは新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれているものが印象深いのですが、いろんな本に書かれていることや現地の看板に書かれていることとは必ずしも一致していないようです。
新田次郎氏の小説「武田信玄」に書かれている三増峠の合戦は、小田原城を囲んでいた武田軍が撤退するのを阻止すべく北条方の軍勢が三増峠に布陣して待ち構えていたところを、武田軍は3隊に分かれてそれぞれ、志田峠には山県昌景、三増峠には馬場信春率いる本隊、その東側に信玄率いる旗本が戦場全体を見渡せる小高い場所を占領してそこから鉄砲の音を使って全体を指揮。津久井城には小幡尾張守を差し向け、そのうち志田峠に進む山県昌景が敵を突破し、これをきっかけに武田軍が勝利したことになっています。
しかし実際に現地に行ってみると三増合戦碑のところの看板には、もともと三増峠に陣取っていた北条勢は、武田勢が押し寄せてくることが分かると、志田峠の西方の半原に陣を移し、武田勢が三増峠付近をおさえ、小幡信定を津久井の長竹へ行かせて津久井城にいる北条方の動きを押さえ、山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにしたが、そこへ北条方が攻め寄せたことになっています。激闘の末、山県別働隊が北側から志田峠を越えて北条軍の背後(側面)をついて武田軍が勝利したとのことです。前者は武田が北に攻めあげたことになっていますが、後者は北条が攻めあげたような記述になっています。
その他にもいろいろな情報がありますが今のところ私の知りうる範囲で共通しているのは、
・武田軍は甲州へ退却するという大目的は達することができた。
・山県昌景が別働隊として志田峠付近で活躍した。
・武田側は
津久井城を重要拠点として注目し、ここを抑えるために派兵した。
・武田方の浅利信種が戦死した。
・戦後、武田軍は甲州までの退却時に難渋した。

ということでしょうか?
近くにある旗立て松も氏照や氏邦の旗立て松ではなくて敵地の武将である信玄の旗立て松だし、看板に書かれている文章のニュアンスも武田方が勝ったように書かれているし、その後語り継がれているいろいろな伝説についてもいかに武田軍が強かったかということが語り継がれているような気がしました。
三増合戦場の碑の近くでは人骨などが発見されたこともあるらしいのでここで武田と北条による合戦が行われたことは事実であるようですが、合戦についての詳しい経過は分かりませんね。
武田軍は小田原から駆けつけるであろう北条の本隊が来る前に急いで帰らねばならず、雰囲気的には山に陣取っている北条軍を打ち破って北へ進んで行ったような気がするのですが、そうすると現在東名厚木カントリークラブ内にある信玄の旗立て松の存在は何なのでしょうか?小説のとおり武田の本陣が置かれてここから戦況を見て全軍に指揮したのでしょうか?それとも説明に書いてあるとおり旗を立てただけなのか、もしくは合戦とはまったく関係なかったかもしれません。

今日はPSアドバイザー氏にも同行してもらい、彼は三増合戦について何も知らなかったため、合戦の概要が書かれている説明が書いてある三増合戦の碑のところに寄りましたが、前回来たときよりよく整備されていました。

 


 

2001年08月18日
藤沢→厚木→三増峠→津久井→半原→東名厚木C.C→三増合戦場→厚木→東名→首都高速→市川

午前11時に自宅を出発。三増合戦場の碑を通り過ごし、先に三増峠を越えて津久井に出てから長竹、半原と周って東名厚木C.Cに到着。ゴルフ場にゴルフ以外の目的で入ったのは初めてでした。あいにくの雨でしたがゴルフ場の駐車場は満車。車を置かせてもらってカメラを片手に旗立て松のある山に登りました。まるでO.Bを打った後の山の中のボール探しのようでした。頂上からの景色は最高でした。雨が強くなってきたのですぐに下山して、隣の志田峠の方に行ってみましたが車では行かれそうもないので途中で断念。その後三増合戦場の石碑に寄ってきました。


三増合戦のあらまし
永禄12(1569)年10月、甲斐(今の山梨県)の武田信玄は、2万の将兵をしたがえて、小田原城の北条氏康らを攻め、その帰り道に三増峠を選んだ。
これを察した氏康は、息子の氏照、氏邦、娘の夫綱成らを始めとする2万の将兵で三増峠で迎え撃つことにした。ところが武田軍の近づくのを見た北条軍は、半原の台地上に移り体制を整えようとした。
信玄は、その間に三増峠の麓桶尻の高地に自分から進み出て、その左右に有力な将兵を手配りし、家来の小幡信定を津久井の長竹へ行かせて、津久井城にいる北条方の動きを押さえ、また山県昌景の一隊を韮尾根に置いて、いつでも参戦できるようにした。北条方は、それに方々から攻めかけたのでたちまち激戦となった。そのとき、山県の一隊は志田峠を越え、北条軍の後ろから挟み討ちをかけたので、北条軍は総崩れとなって負けてしまった。この合戦中、武田方の大将浅利信種は、北条軍の鉄砲に撃たれて戦死した。
北条氏康、氏政の親子は、助けの兵を連れて荻野まで駆けつけてきたが、すでに味方が負けてしまったことを知り、空しく帰っていった。
信玄は、勝ち戦となるや、すぐに兵をまとめ、反畑(今の相模湖町)まで引き揚げ、勝利を祝うとともに、敵味方の戦死者の霊をなぐさめる式を行い、甲府へ引きあげたという。
(愛川町教育委員会:看板資料より)

 

 
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