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神奈川県愛川町

旗立て松


2014年01月04日

旗立て松の由来
永禄12(1569)年10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。
北から西へ連なる三増の山並みを越えて、甲州に通ずる道には、三増、中、志田の三峠があるが、そのうちで最も高く険しいのが中峠であった。
信玄は、相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り、追撃する北条軍に備えた。中峠近く、高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻に本陣を置き、合戦の指揮をとったのである。
往時を知らす縁の松は、小学生が5,6人で取り囲むほどの太さであった。惜しいかな、大正12年の失火により枯れて今は無く、ただ記念碑と旗立て松二世に、戦の跡をしのぶのみである。
(愛川町教育委員会:看板資料より)

武田信玄旗立松の跡碑の解説文
右手に立っている「武田信玄旗立松之跡碑」文は日本紋章学の権威、沼田頼輔氏によるもので、概略次のようなことが書かれています。
高峰村が津久井と接する北の境の山脈は延々と東西に広がっています。その中で最も険しいものを「中峠」と呼んでいます。くっきりと四方の展望が開け、麓の村に行き来する人馬は豆粒ほどにしか見えません。山の峰に一本の老いた松が青々と茂り、天に伸びています。里の人はこれを「武田信玄旗立松」と呼んでいます。言い伝えでは永禄12年10月8日、信玄が北条氏政の軍と当地で戦った折、本陣をこの峰に張り、旗をこの松の上に掲げたという由来によりこうした名称になったということです。つまり、この地こそは信玄が足跡を印した所であって、松の樹もまた信玄の心に触れたものということができます。それから350年余を経て、松に吹く風は今なをその余韻を伝え、人々にその当時を偲ばせていたのですが、近年の火災により惜しいことに昔からある老松をもう一度見ることはできなくなりました。
高峰村青年団諸君は、ここに一見の価値ある史跡が空しく消えてしまうことを惜しみ、石碑を建てて何時までも伝えようと考え、その碑文を私(沼田頼輔)に依頼してきました。この地は私が以前からよく遊んでいた所です。老いた松の姿もなお心に刻まれています。これまでのことを聞いて、感慨も更に切なるものがあり、よって拙さをも顧みずこの文を作りました。
(看板資料より)



2003年05月24日

旗立て松がある山

旗立て松からの景色

場所は東名厚木カントリークラブの中にありますのでゴルフをする気分でゴルフ場内の駐車場に車を止めて、駐車場の裏にある山に向かって歩けばOKです。信玄公の旗立て松への案内の看板は親切丁寧にたくさん立っているので場所はすぐにわかると思います。ちなみに2年前に来たときとは行き方が変わっていました。ゴルフ場のコースを変更したためと思われますが昔の雰囲気とはかなり違ってしまっています。

 


 

2001年08月18日

旗立て松の由来
永禄12(1569)年10月6日、三増の山野で甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康とが戦った。旗立て松はこの三増合戦のおり、信玄が大将旗を立てた跡である。
北から西へ連なる三増の山並みを越えて、甲州に通ずる道には、三増、中、志田の三峠があるが、そのうちで最も高く険しいのが中峠であった。
信玄は、相模の原を一望するこの高台を中心にして鶴翼の陣を張り、追撃する北条軍に備えた。中峠近く、高く聳える松に旗を翻し、自らは麓の桶尻に本陣を置き、合戦の指揮をとったのである。
往時を知らす縁の松は、小学生が5,6人で取り囲むほどの太さであった。惜しいかな、大正12年の失火により枯れて今は無く、ただ記念碑と旗立て松二世に、戦の跡をしのぶのみである。
(愛川町教育委員会:看板資料より)


旗立て松からの景色

 
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