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長野県松本市

平瀬

2014年11月16日

平瀬城について
古代以降この地を領有し統轄してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に信府へ入る。信濃守護小笠原氏の信任あつく南北朝争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を供にしてくる。
平瀬は小笠原氏にとってその後も最も重要な拠点の一つであったことが知れる。おそらく平瀬城は南方の犬甘城と供に林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられる。
平瀬城は北の本城、南の支城から成っている。後年天文20(1552)年10月24日武田晴信の侵攻に会い落城。その際平瀬方武将204人が生命を落としている。武田方により同城は同年10月28日に城割そして鍬立がなされた。
平瀬城(北・本城)
山田地籍の北部よりほぼ西方へ派生する尾根の先端部分に主要遺構をおく標高約716m前後、比高差約140mで南西北の三方は落差の激しい垂崖状を示し自然要害の地選(じより)条件を具備している。現在遺構の残存状態はよく、大手道を行くと道をたちきる堅掘、道の両沿におびただしい帯曲輪、虎口武者走り、主郭、二ノ郭、土塁や石垣の一部、馬出し、尾根をたちきる掘切、厳重な急な山の斜面を刻む堅掘群、あるいは散開形の堅掘などの施設を認める。
この本城の各所より焼米、石臼、内耳土器などの破片をみており、戦時における籠城の足跡をうかがわせる。
平瀬城(南・支城)
山田地籍の高山嵐から西方へ更に曲折して西北方へ下る尾根筋の先端部分に遺構は残存する。やはり西北東の三方は垂崖状となり要崖の地に立っている。標高は約650m、比高差は約80mである。南支城の遺構残存状況も良く、主郭には南西北の三方に土塁が残存し、虎口を北にとりその前面に二の郭をおいている。主郭の東下に腰曲輪が四面連続し南の尾根に掘切が四連続、西斜面には堅掘が3條、東斜面は堅掘群を認める。
(島内史談会:看板資料より)

平瀬下野守の詰めた山城で現在東西50間、南北15間の城址や堀割帯曲輪等の遺構が残存する。小笠原長時の重臣で天文20年10月24日武田晴信に徹底抗戦し落城。城将以下204名討死せし処
(山頂の木杭に記載文章より)

平瀬城から見えた北アルプス常念岳

平瀬城登山口



2005年12月04日

平瀬下野守の詰めた山城で現在東西50間、南北15間の城址や堀割帯曲輪等の遺構が残存する。小笠原長時の重臣で天文20年10月24日武田晴信に徹底抗戦し落城。城将以下204名討死せし処
(山頂の木杭に記載文章より)

本丸と思われるとことは比較的広く一番奥には祠があって、物凄く立派な松の木があって私が到着したときには小雪が混じった横殴りの強風で少し不気味に感じました。


平瀬城登山口

洞光寺ですっかり体が冷え切ってしまい、急いで次の目的地である平瀬城に向いました。ここは以前来たことがあり、場所は分かっていました。とにかく体を温めるために黙々と休むことなく一気に登り切ったので15分かからずに頂上にたどり着いてしまいました。

前回来たときに断念したところから更に進んでいけば比較的容易に行くことができました。途中ポイントが2ヶ所ありますがどちらにも立て看板があって方向を示しているので道に迷うことはないと思います。



2003年07月05日

平瀬城について
古代以降この地を領有し統轄してきた平瀬氏は鎌倉幕府滅亡後に信府へ入る。信濃守護小笠原氏の信任あつく南北朝争乱時や、平時の生活においても表裏一体の関係で運命を供にしてくる。
平瀬は小笠原氏にとってその後も最も重要な拠点の一つであったことが知れる。おそらく平瀬城は南方の犬甘城と供に林城に前後する室町期に相互必要あって築城されたものと考えられる。
平瀬城は北の本城、南の支城から成っている。後年天文20(1552)年10月24日武田晴信の侵攻に会い落城。その際平瀬方武将204人が生命を落としている。武田方により同城は同年10月28日に城割そして鍬立がなされた。
平瀬城(北・本城)
山田地籍の北部よりほぼ西方へ派生する尾根の先端部分に主要遺構をおく標高約716m前後、比高差約140mで南西北の三方は落差の激しい垂崖状を示し自然要害の地選(じより)条件を具備している。現在遺構の残存状態はよく、大手道を行くと道をたちきる堅掘、道の両沿におびただしい帯曲輪、虎口武者走り、主郭、二ノ郭、土塁や石垣の一部、馬出し、尾根をたちきる掘切、厳重な急な山の斜面を刻む堅掘群、あるいは散開形の堅掘などの施設を認める。
この本城の各所より焼米、石臼、内耳土器などの破片をみており、戦時における籠城の足跡をうかがわせる。
平瀬城(南・支城)
山田地籍の高山嵐から西方へ更に曲折して西北方へ下る尾根筋の先端部分に遺構は残存する。やはり西北東の三方は垂崖状となり要崖の地に立っている。標高は約650m、比高差は約80mである。南支城の遺構残存状況も良く、主郭には南西北の三方に土塁が残存し、虎口を北にとりその前面に二の郭をおいている。主郭の東下に腰曲輪が四面連続し南の尾根に掘切が四連続、西斜面には堅掘が3條、東斜面は堅掘群を認める。
(島内史談会:看板資料より)

本城(左)と支城(右)

小笠原長時は天文19(1550)年、武田晴信に攻められて本城である林城を捨ててこの平瀬城に撤退し、更に葛尾城の村上義清を頼っていくことになります。しかしその2ヵ月後に武田晴信は小県郡戸石城を攻めますが、いわゆる戸石崩れで後退すると、その機会に再び小笠原長時は村上義清の援助を得て平瀬城を奪還し、更に深志城(現在の松本城)をねらいます。しかし村上義清は一転兵を佐久に向けたため小笠原長時の野望は頓挫してしまいます。翌天文20(1551)年5月、真田幸隆によって戸石城の攻略に成功して優位に立った晴信は、10月に深志城から攻め出して平瀬城を再び奪還します。その後平瀬城には原美濃守虎胤に守らせました。平瀬城攻略の3日後、小岩嶽城を攻めたがこのときには落とすことができずに撤退している。

平瀬城は場所が非常に分かりにくいです。私は北から行ったので特に分かりずらかったのですが国道19号線を豊科町から松本市に入ってすぐのところに篠ノ井線の線路の下をくぐる道があるのでそこを通過してその先は右からでも左からでも行くことができます。案内の看板があるところに車を止めて近所のおばあちゃんに場所を聞いてみましたが今の時期はとてもじゃないが行かれない!とのことでした。それでも少し行ってみたのですがはやりおばあちゃんの言った通り、橋を渡ったところまで行った所で雑草のため断念。その後近所の別のおばちゃんに聞いたところ、上に行っても何もないし、11月3日にはお祭りがあってそのころには雑草も枯れてお城の全容が見えるのでその頃に是非来なさいと言われました。ちゃんと覚えておかないと。。。

 

 
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