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京都府京田辺市

飯岡共同墓地(穴山梅雪墓)


2005年08月04日

穴山梅雪墓

天正10(1582)年に、織田信長が明智光秀に殺された本能寺の変が起こったとき、泉州堺(大阪府堺市)に滞在していた徳川家康は、京都を避けて急いで居城の三河(愛知県)の岡崎城に帰るため、堺から飯盛山、牧方市尊延寺を経て京田辺市に入り、普賢寺、興戸、草内のコースで木津川を渡り、宇治田原から朝宮、加太、白子、大浜に出て帰城する。1日遅れて家康の武将の穴山梅雪は、同じコースをたどり帰城しようとしたが、河内の土民に追い詰められて木津川を渡る前に主従12名と共に自刃したと古文書は伝えるが、殺害されたとの説もある。
梅雪は以前甲斐(山梨県)武田家の武将で、母は武田信玄の姉の南松院、妻は武田信玄の三女、見性院妙顕である。この見性院は、梅雪の死後2代将軍徳川秀忠の三男幸松丸(後の保科正之)を養育した。
家康の人生最大の事件であり、多くの作家が小説にしているため、年間ここを訪れる人たちが多い。
(看板資料より)

飯岡(いのおか)の共同墓地にある五輪石塔の墓。梅雪は甲斐武田家の武将で、母親は武田信玄の姉、南松院。天正10年に徳川家康に属し、のちに織田信長に降ったといわれる。泉州堺にいたとき、本能寺の変が起こり、急遽帰国の途中に田辺町内で殺害されたとの説があり、飯岡の人たちが手厚くここに葬ったという。
一説には、普賢寺谷で梅雪の従者が、道案内人を殺し、その太刀の銀製のツバを奪ったことから、土着民が蜂起し、梅雪が木津川を渡る前に殺害されたとの伝説がこの里に伝わっている。
(看板資料より)

穴山梅雪終焉の地は京田辺市の木津川にかかる山城大橋のあたりということまでは分かっていたのですがあとは現地に行ってから聞いてみようということで山城大橋をめざしました。しばらく周辺を走りまわりましたがJAで場所を尋ねたら田辺病院の近くであり、看板もあると教えてくれました。しかし田辺病院の看板もなかなか見つからず、農作業のおじちゃんに聞いてみたらすごく丁寧に教えてくれて、飯岡の共同墓地にたどり着くことができました。飯岡はいいおかではなくていのおかと呼ぶのだそうです。手前が草内の墓地で、奥が飯岡の墓地とのこと。全体的に小さな墓地で入口に「穴山梅雪墓」の案内板がありました。共同墓地ということでお寺ではないらしくそれらしい建物はありませんでした。入口からみるとどれが穴山梅雪の墓なのか分かりづらいですがそんなに広くはないので中で探しまわればすぐに見つけることができます。


霊泉寺
満福寺
草内の渡し場跡の碑

 

 
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