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山梨県南部町

常安寺

2013年12月22日

大梅山常安寺
甲斐国社記、寺記の由緒書を要約してみると「大梅山常安寺の由緒について、本尊は行基菩薩の御作による十一面観音で、開山夢想国師の道場であったが、武田弥九郎信義公(穴山第4代信懸)の次男である武田(穴山)伊予守基信公により再営され、境内山林除地弐反歩余りのご寄付がなされた。伊予守基信公は、享禄4年辛卯(1531)年12月16日に没し、法名を常安寺殿実山仁公大居士と号した」とある。
即ち、武田伊予守基信公(穴山基信)の開基によるもので、五輪の石塔がある。正徳2(1712)年に下山南松院の末寺となったが、文久2(1862)年より京都妙心寺末となっている。
当寺は文化、安政年間と再度にわたり被災しているので本尊を除く寺宝、古記録等多く灰燼となったことが惜しまれる。
また当山は第二次世界大戦中、各地に転戦し、昭和18年1月14日、ガダルカナル島において戦死を遂げた軍神、中隊長若林東一大尉の墓所もある。
(看板資料より)

穴山信尭の墓

穴山信懸の子で、刑部大輔、伊予守を称したといい、諱は信尭、後に基信を名乗ったとされる。穴山氏の系図以外に確かな記録がなく事績はまったく分からない。「平塩寺過去帳」には兵部大輔信尭と記録されている。法名は「常安寺記」には「常安寺殿実山仁公大居士」とあり、この法名は穴山甲斐守信風(竜雲寺殿)の弟に相当する。現在も墓所が常安寺(南部町内船)に伝承されている。
(平山優著 穴山武田氏より)

 



2012年04月15日

大梅山常安寺
甲斐国社記、寺記の由緒書を要約してみると「大梅山常安寺の由緒について、本尊は行基菩薩の御作による十一面観音で、開山夢想国師の道場であったが、武田弥九郎信義公(穴山第4代信懸)の次男である武田(穴山)伊予守基信公により再営され、境内山林除地弐反歩余りのご寄付がなされた。伊予守基信公は、享禄4年辛卯(1531)年12月16日に没し、法名を常安寺殿実山仁公大居士と号した」とある。
即ち、武田伊予守基信公(穴山基信)の開基によるもので、五輪の石塔がある。正徳2(1712)年に下山南松院の末寺となったが、文久2(1862)年より京都妙心寺末となっている。
当寺は文化、安政年間と再度にわたり被災しているので本尊を除く寺宝、古記録等多く灰燼となったことが惜しまれる。
また当山は第二次世界大戦中、各地に転戦し、昭和18年1月14日、ガダルカナル島において戦死を遂げた軍神、中隊長若林東一大尉の墓所もある。
(看板資料より)


穴山信尭の墓

穴山信懸の子で、刑部大輔、伊予守を称したといい、諱は信尭、後に基信を名乗ったとされる。穴山氏の系図以外に確かな記録がなく事績はまったく分からない。「平塩寺過去帳」には兵部大輔信尭と記録されている。法名は「常安寺記」には「常安寺殿実山仁公大居士」とあり、この法名は穴山甲斐守信風(竜雲寺殿)の弟に相当する。現在も墓所が常安寺(南部町内船)に伝承されている。
(平山優著 穴山武田氏より)

 

 
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