|
「伝」の字が刻まれた謎の碑。討死の場所が不明。高坂弾正に近い人物と思われる。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)
『甲斐国志』によれば、高坂弾正には3人の息子があり、長男源五郎昌澄は長篠で討死、次男源五郎昌貞は勝頼没後上杉景勝に討たれる。三男勝五郎という者がいたと記されているが、又八郎助宣の名は出てこない。別項に高坂又九郎助宣の名をあげ、弾正の族人かと疑問を呈しているのみである。三男勝五郎と又八郎助宣が同一人物とは考えられない。
高坂弾正は、春日弾正から改名したもので、永禄4(1561)年、武田信玄は北信濃の名族、牧之島城の城主香坂宗重を討ち、その娘を春日弾正に嫁がせ香坂の名跡を継がせ、香坂弾正忠昌宣と改名させたとする説がある。
『更科埴科地方誌(第二巻)』では、この説は更に研究検討を要するとしているが、敗れた香坂一党は高坂弾正の配下に入ったとしているので、又八郎助宣は香坂一族の出で、香坂宗重の息子、即ち高坂弾正に嫁いだ娘の兄あるいは弟とも考えられる。
長男源五郎昌澄、次男源五郎昌貞は、父昌宣の昌の一字を、又八郎助宣は宣の一字を、それぞれ名乗りに与えられていることからも、又八郎助宣は、高坂弾正夫妻の極めて身近な一族の一人であったと推測される。
大正3年5月、長篠古戦場顕彰会により、有海字稲場四五の地に「伝高坂又八郎助宣之墓」と刻まれた墓碑が建てられた。顕彰会がこの有海字稲場を又八郎助宣討死の場所とした根拠は、『三河国名所図絵』、『愛知県南設楽郡誌』、口碑、牧野文斎の研究調査等によるものと考えられるが、今ひとつ判然としなかったために「伝」の一字を付したものだろう。
有海原で討死したと考えられていた又八郎助宣の墓が『藷山随筆』では、新間原にありとある。長篠城監視隊として高坂源五郎昌澄の下で有海原に布陣していた又八郎助宣が、新間原で討死するに至る経緯を考えてみたい。
@長篠城監視隊の任務を解かれた又八郎助宣は、設楽原の本隊に合流し、最後の配陣で本陣左脇備えに属し、新間原から山形高地あたりで、佐久間信盛の臣、佐久間三左エ門に討たれた。(『長篇長篠軍記』による鎌子信治説)
A鳶ヶ巣山の奇襲を知った長篠城監視隊の小山田・相木・天野・高坂又八郎助宣等は、岩代川を渡り救援に駆けつけたがもはやてのつけようもなく、辛くも脱出してきた五味、名和等と共に反転し、設楽原に向かい、その途中、前を行く松平伊忠を討ち取り、一旦本隊に合流した。(『設楽原戦史考』による牧野文斎説)
B遊軍として有海原に布陣していた山県昌景隊が、設楽原に向かうとき、源五郎昌澄の命により山県隊に参加し、以降昌景と行動を共にし討死した。(山県昌景親子と又八郎助宣の墓の位置、山県昌景と高坂弾正との交友関係から推測した仮説)
C前記三説とは逆に、高坂又八郎助宣は源五郎昌澄の部下としてではなく、前述した香坂一党を率いた将として参戦、緒戦から新間原に布陣して討死した。
いずれの経緯をたどったにせよ、新間原に現れた又八郎助宣は壮烈な最期をとげ、設楽原にその名を残すことになる。
高坂又八郎助宣の墓は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。
|