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愛知県新城市

小山田五郎兵衛昌晟之墓

2014年08月15日

小山田五郎兵衛昌晟は、武田本隊が設楽原出撃後の長篠城監視隊。以前は船戸18の畑で、五輪塔が横にあった。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

天正3年5月20日、武田勝頼が設楽原へ進撃した道筋を『設楽原戦史考』は「船渡の橋を渡りて有海に出て、来光坂を越えて清井田東高地に至り…」と述べている。勝頼はこの秋葉街道を西へ設楽原へと進んだのである。その秋葉街道を勝頼とは逆に東へ三十メートルほど進むと、右手に供養幡がひるがえり二基の墓碑が建っている。北向きの碑が横田十郎兵衛康景、背中合わせの南向きの碑が小山田五郎兵衛昌晟の墓である。
この墓碑は以前、秋葉街道の北側の林家の西横手の畑にあったが、その後現在地へ移転した(※現在は更に新東名工事により移設されている)。墓碑は高さ二尺の花崗岩の台石の上に、幅二尺三寸、高さ三尺六寸の根府川石に土屋大将の筆で「伝小山田五郎兵衛昌晟之墓」と彫りつけ、裏面には「大正3年5月顕彰会建之」とある。墓のそばには高さ一尺の五輪塔が一基安置されている。
小山田はこの地で討死したというが、討死に至る戦いの経緯はどうであったか。『信長公記』『長篠日記』『甲陽軍鑑』等にはその名さえみることはできない。しかし地元には次の説がある。
5月20日武田軍の本隊が設楽原へ進撃すると、小山田昌晟は高坂等と共に長篠城の監視隊として残留していた。21日早朝、鳶ヶ巣砦が破れ前後に敵を受けたのでその囲みを解き、勝頼本陣へ合流するため設楽原へ駆けつけようとし、その途中有海原で討死した。(『明治郡誌』要約)
また小山田昌晟は本陣付の武将として設楽原で戦っていたが、敗退の時主君勝頼の退路を守護しつつこの地まで退却してくると(勝頼は途中退路を変更)酒井忠次の一部隊と、長篠城兵の一部隊とに遭遇し、此処で大激戦を演じて討死した。(『長篇長篠軍記』要約)
武田家臣団の中に小山田は二家ある。小山田左兵衛尉信茂の一族は設楽原の左翼隊に属し竹広方面で徳川勢と戦い、小山田備中守昌行の一族は長篠城監視隊として残留していたという。『甲斐国誌』の「石田の小山田」の項に「同五郎兵衛信長記に長篠討死とあり」と記されていることや、石田の小山田氏は皆昌の字を名乗っていることなどから、墓碑の主小山田昌晟は石田の小山田氏の一族の者と考えられる。
(設楽原戦場考より)

 



2012年05月04日

小山田五郎兵衛昌晟は、武田本隊が設楽原出撃後の長篠城監視隊。以前は船戸18の畑で、五輪塔が横にあった。
(戦国の陣没将士墓苑記載文章より)

天正3年5月20日、武田勝頼が設楽原へ進撃した道筋を『設楽原戦史考』は「船渡の橋を渡りて有海に出て、来光坂を越えて清井田東高地に至り…」と述べている。勝頼はこの秋葉街道を西へ設楽原へと進んだのである。その秋葉街道を勝頼とは逆に東へ三十メートルほど進むと、右手に供養幡がひるがえり二基の墓碑が建っている。北向きの碑が横田十郎兵衛康景、背中合わせの南向きの碑が小山田五郎兵衛昌晟の墓である。
この墓碑は以前、秋葉街道の北側の林家の西横手の畑にあったが、その後現在地へ移転した(※現在は更に新東名工事により移設されている)。墓碑は高さ二尺の花崗岩の台石の上に、幅二尺三寸、高さ三尺六寸の根府川石に土屋大将の筆で「伝小山田五郎兵衛昌晟之墓」と彫りつけ、裏面には「大正3年5月顕彰会建之」とある。墓のそばには高さ一尺の五輪塔が一基安置されている。
小山田はこの地で討死したというが、討死に至る戦いの経緯はどうであったか。『信長公記』『長篠日記』『甲陽軍鑑』等にはその名さえみることはできない。しかし地元には次の説がある。
5月20日武田軍の本隊が設楽原へ進撃すると、小山田昌晟は高坂等と共に長篠城の監視隊として残留していた。21日早朝、鳶ヶ巣砦が破れ前後に敵を受けたのでその囲みを解き、勝頼本陣へ合流するため設楽原へ駆けつけようとし、その途中有海原で討死した。(『明治郡誌』要約)
また小山田昌晟は本陣付の武将として設楽原で戦っていたが、敗退の時主君勝頼の退路を守護しつつこの地まで退却してくると(勝頼は途中退路を変更)酒井忠次の一部隊と、長篠城兵の一部隊とに遭遇し、此処で大激戦を演じて討死した。(『長篇長篠軍記』要約)
武田家臣団の中に小山田は二家ある。小山田左兵衛尉信茂の一族は設楽原の左翼隊に属し竹広方面で徳川勢と戦い、小山田備中守昌行の一族は長篠城監視隊として残留していたという。『甲斐国誌』の「石田の小山田」の項に「同五郎兵衛信長記に長篠討死とあり」と記されていることや、石田の小山田氏は皆昌の字を名乗っていることなどから、墓碑の主小山田昌晟は石田の小山田氏の一族の者と考えられる。
(設楽原戦場考より)

小山田五郎兵衛昌晟の墓は、新東名工事のため新昌寺本堂裏に移設されていました。鳥居強右衛門の碑の横になります。すぐ後ろには新東名が開通する予定のようで工事が進められていました。

 



2006年05月06日

小山田五郎兵衛昌晟についていろいろな文献を調べてみましたが彼がどのような人物なのかは分かりませんでした。ただし、小山田五郎兵衛という人物は小山田信義の次男で兄は小山田八左衛門行村であるとのこと(出典不明)でしたが、小山田五郎兵衛昌晟のことがどうかはわかりません。

 



2003年10月12日

松平伊忠戦死之地から南に進んで国道151号線を越えて少し行ったところの右側に小山田五郎兵衛昌晟之墓と、横田十郎兵衛康景之碑がありました。

 


小山田八左衛門行村墓 

 

 
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